「偽物」は死んだ。
誰かを笑う人の後ろにもそれを笑う人
それをまた笑う人
と悲しむ人
悲しくて泣く人の後ろにもそれを笑う人
それをまた笑う人
と悲しむ人
サカナクションの「エンドレス」という曲の歌詞だ。
SNSでは毎日まさにこんな光景。
誰かの後ろに、必ずそれを笑う人と泣く人がいる。
それがどこまでもネガティブに連鎖してる。
SNS疲れとよく言うけど、
実際には剥き出しのネガティブな表現に
疲れてしまうんだと思う。
さて、ところで、うちには猫がいる。
きれいでフサフサした毛並みの、
だけどまったく触れることのできない猫が。
去年、引き取り手のない猫を面倒見てるNPOから、
うちにやってきた猫。
名前はアイリス( NPOですでにそう呼ばれてた)
アイリスは、人間を信じていないらしく、
少しずつ家には慣れてきたみたいだけど、
ゴハンだけは人間の近くでも食べるけど、
人に触れられることを一切許していない。
そろそろ家にきて、一年も経つのに。
この飼い猫との生活は猫を飼ってる人からしたら、
だいぶ奇妙だと思う。
同じ空間にいるのに見ることしかできない。
膝の上に乗ってきたり、
一緒に寝たりする猫を、
日頃浴びるようにSNSで見て羨ましく思う。
うちの猫とのコミュニケーションはある意味で、
VRコンテンツみたいな感じだ。
「猫のいる生活2」
みたいなタイトルのコンテンツだこれは。
時間をかけて、いつか抱っこしたい。
本物か偽物か。
バーチャルかリアルか。
そんなボーダーが意味なくなってきた感じがする。
どうでもよくなってきたというか、
ぜんぶが本物になってきた。
ソーシャルゲームで仲良くなって
チャットでしか会話しないけど気が合うアイツと、
部活もクラスも同じで、毎日顔を合わせる、
そんな喋らないけど居心地いいアイツとの友情は、
どっちが上でも下でもなく、
どっちも大事な友情だといっていいはずだ。
アプリで盛った顔と、
すっぴんの顔、
どっちもその人そのもので、
どっちかが偽物なんてことはないと思う。
ただ、一つ言えるのは
あなたは、あなた自身だけは、
あなたの24時間を知っているということ。
たとえば。
顔が見えないからといって、
SNSならいいかと知らない人に噛み付いたり、
芸能人ならいいかとひどい言葉をぶつけたりする。
相手にはあなたが誰かバレないかもしれない。
でも、その全てをあなた自身は見ている。
あなた自身に偽物はいなくて、
いくら人格をちぎってわけてみても、
そのすべてをあなたは見ている。
バーチャルもリアル関係なく、
自分は自分で、自分の振る舞いは、
SNS上だろうと、リアルだろうと、
ゲームの中だろうと、自分は見ている。
今日は4月1日です。
どんな嘘をついてもいい日だけど、
自分は自分に嘘をつかずに生きているか?
その嘘は、誤魔化してもいつかバレるなら、
こんな嘘みたいにしんどい本当の日々が続くなら、
どんな本当のことしようかを考えるのも楽しいかも。
ちなみに最初に紹介したエンドレスという曲は、
こんな歌詞で終わります。
この指で僕は僕を差す
その度にきっと足がすくむ
見えない夜に色をつける声は僕だ
今日は新年度が始まった日。
東京はあいにくの天気。
そしてあいにくの空気だけど。
何かをリスタートするにはちょうどいい。
今夜は、
本物の自分で、見えない夜に色をつけましょう。