リレーコラムについて

32、3歳からのTCCへの道 転職篇

細田佳宏

前回の続きです。
とはいえ前回までは読まなくても大丈夫です。あと今回も読まなくも別に大丈夫です。

同僚から渡された宣伝会議を見てこんな楽そうでお金までもらえるコンテストがあるのかと32、3歳にして初めてコピーを書いてみようと思った私は、適当に思いついたものをいくつか応募してみました。はじめてバーボンハウスのスレッドを開いた時のようなときめきを感じながら梅田の紀伊国屋で発表号をみたら二次選考だかまで残ってました。いや賞にはぜんぜん遠いんですけどこれチョロくね?ワンチャンいけるんじゃね?と嬉しくなってそのまま宣伝会議を買って帰りました。SKATも買いました。チョロいのは私の方でした。典型的なアキバでエウリアンに絵とか買わされるタイプです。今ならSSR出るまでガチャ回し続ける廃課金です。

こうしていい感じに釣られた私はYouTuberで食ってくぜ!ぐらいの誤った勢いで広告を仕事にしようと考えはじめ、それからたぶん3年ぐらいなんやかんやあって35歳ぐらいで会社を辞め、電通に入り、コピーライター、CMプランナーという肩書だけは立派な名刺をいただくことになります。

今、なんやかんやの一言でざっくり片付けましたが、なんやかんやという部分には、養成講座に通ったり、公募の賞に送りつけたり、自分でCMつくったりしてたりしてました。その流れでこのTCCのサイトも見るようになりました。1日10分アクセスするだけでコピー力がグングンアップみたいなこともなく、会社にTCC年鑑なんか置いてないのでここでコピーやCMのスクリプトを眺めているような無課金ユーザーです。公募で運良く賞をもらったり、もらわなかったりするうちに、そのうち気にかけてくれる人もいたりしてありがたく拾ってもらえました、というざっくり言うとそんななんやかんやです。

今でこそわかりますが、コピーというのはわかりやすい広告の旗印ですが表層の一部であり実際の産業としての広告はすごい組織的なわけです。硫黄島に星条旗をぶち立てるために後方では巨大な兵站をひいていたわけです。モナカの中までチョコたっぷりなわけです。ひとりががんばったところでランボーやセガールでもなければいきなり旗立てに行ってもだいたいスナイプされて死にます。この業界にはランボーやセガールみたいなのが普通にいるのがややこしいのですが、セガールだって本職はコックだし、ランボーだってトラウトマン大佐がいるからギリ許されてるということを忘れてはいかんのです。どうでもいい。なので私が今CMプランナーとして仕事ができているのは私に旗持たせて送り出してくれた人がいたというたまたまの話です。

じゃあワシはどうしたらええねんとこれを読んでいる人は怒りのアフガンだと思いますが、どうしたらいいかは私もわかりません。生存バイアスでしか語れないのがこのテの話の難しいところですが、私が今このコラムを書いているのは結果的に見れば運が良かったからです。運とかいうと再現性がないので人脈と言い換えてもいいのですが、私は人脈づくりとかできず、飲み会とかでもだいたい沈黙の戦艦なので、たまたま近くに私の後押しをしてくれた恩人がいたというだけの話です。適切な戦術を語れず「がーんばれーがーんばれー頼むがんばれーがんばってくれー」と言うしかないのが金八世代の悪いところです。すいません。

とはいえなんとか広告代理店にもぐりこんだところで何もできないことには変わりません。むしろ35歳過ぎた伸びしろのないおっさんがこれからどうすんだみたいな話です。

代理店篇に続きます。

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