リレーコラムについて

アジア的な広告?

尾上永晃

佐藤可士和展にいって偉業の数々に震えた。同時に、展示されているのは整理の技術であってそうじゃないものもあるだろうと思った。
整理をして無駄を削ぎ落として効果を最大化するデザインという考え方は欧米的なものなのではないか。そんな考えが裏側にあった。

ヤフーとLINEの統合キャンペーンという仕事をしたときに、合併ののち目指すのはアジアのAIテックカンパニーだと社長が語る記事に行き当たった。アジアに住みながらアジアをあまり意識しない自分としては、それでGAFAと戦えるのだろうかと疑問だった。曰く、AIの二大巨塔である欧米的でもなく中国的もでない第三極を目指すということらしい。その違いは何か。

菅付雅信の「動物と機械から離れて」はAIの情勢についてインタビューを多数してまとめた本だ。そこで、アメリカのAIは利益主導でヨーロッパは個人の権利主導、中国は共産的価値観で動いていると書かれている。では日本はと言うと、とにかく法整備が遅れて中途半端なのでむしろそれを活かして排他的でなく包摂的なAIを目指すといいのではと述べている。弱者に優しいAIといったところか。ヤフーとLINEの話に戻ると、アジアのAIとはローカル最適重視だとも述べていた。これは近い視点だ。一つの強い型を作ってそれをローカライズしていく欧米の型ではなく、それぞれの場所の型を救い上げて最適化していく型。それは整理ではない。引いてみたとき、どちらかと言うとカオスに近い。

思えば、広告の潮流とか言われるものは大体が欧米輸入ものだ。カンヌでテーマが設定されたらそれが今年のテーマみたいになる。が、それでいいのか?と数年前から感じるようになった。受賞作のバランスは明らかに欧米のものに偏っており(出品料が高いからそうなっている部分もある)、たまに受賞したアジアの仕事はアジア的とか日本的とかいうどことなく漂う文化の発見感がつきまとう。もちろん、カンヌや海外賞は好きだし審査員も何度かさせて頂いているのでフェアなのはわかっているし、仕事としてのレベルが高く基本的にはリスペクトしている。ただ、そうじゃない軸もあって、そこに見落とされているものがあるのではないか。自分の眼が欧米の文化のローカライズにされてしまっていて、いい悪いを判断してしまっているのではないかという怖さも感じる。課題設定とブランドの目標設定の鮮やかさとアイデアの新規性と表現のクラフト力とリザルト、というのがアワードの審査基準になっている。でも、その課題は欧米が納得できるもので、ブランドは欧米が知っているもので、アイデアは欧米が理解できるもので、表現はカンフー映画のトンマナでは間違ってもなくて、リザルトは欧米が作ったソーシャルメディアでのリーチだったりする。アワードビデオを鬼のように作ってきて、どうしたら分かってもらえるか?に意識が集中しがちなのはそういうことなんだろう。逆にアクマのキムラーでは分かってもらう以上にエンタメとしてぶっ飛ばすくらいのつもりでやったら海外でグランプリをとることができた。仲畑さんのトリスの子犬がカンヌでゴールドをとったときは、なんで犬?わからない。わからないのが良さだという議論が起きたらしい。さておき、アワードはあくまでも、そういう言語ゲームのひとつだと理解しないと飲み込まれると思うようになった。

特にパーパスパーパス言われ始めた時に、いや日本の企業って昔から社会に資することを社是に掲げてるところ多いじゃないの。特に京都の1000年企業とかもう社会貢献そのものが商売だったりするし。と思ったのもきっかけのひとつだ。2014年頃ニューヨークにいたときに、やたらと地産地消をおす店が多いし日本のメディアも取り沙汰してるけどなんで?と調べたら、リーマンショック以降地産地消がいけてる考え方になったと書かれていて、それをありがたがる日本のメディアはもっと身近に目を向けた方がいいのではと思ったのもそのちょっと前のきっかけだったりする。古くからある文化だぞと。あと全然関係ないけど、鈴木さんの大根とか加藤さんのキャベツとか、名前かかれるだけでありがたく感じちゃう自分ももうちょっとちゃんとした方がいいと思っている。鈴木さんの大根やばいかもよ。

SPIKESで審査を行ったときのテーマがASIA RISINGだった。一体どんなアジアがライジングしてくるかと期待していたら、あまりライジングしてこなかった。アジア故に生まれたようなものとか、アジアらしいなあと思えるものって何なのかという目線で見ていて、唯一KFCの自分でスマホにお店を作れて友達に直接販売してマージンをもらえる中国のキャンペーンには感じるものがあった。DIESELも似たようなことをやっていたけど、こっちは何かが違うと思った。それは、全く整理されていないユーザーの店舗デザインの跋扈と自分が儲けたいしあなたも得したいよねという欲望で広まっていくカオスな状況に対しての感情な気がする、振り返ると。初期mixiアプリの名キャンペーンOle!Ole!CR-Zのような、裏側に業の塊のようなインサイトがある仕事にも似た感情を抱く(名前にCR-Zとつけて友達を誘い込むと車が当たる確率が上がる)。

天野祐吉の「広告の本」において、40年前の糸井重里は「アメリカ型コピーライターは経済等価交換の世界で、DDBは即物的。日本のCMは全体にモノばなれ的。」と言っていた。DDBだと「〜〜だからこれを買え」とくるけど、カールは「それにつけても」という強引さでいきなり商品に結びつけるという例え付きで。確かに、名前をつけたら車が当たるとか、店の装飾を趣味でゴテゴテさせるなどは商品そのものと距離がある。でもそれこそが特性になっているし、僕はそういう仕事が好きだ。

経済的に余裕がないと即物性に偏るという話をどこかで見た。たしかに今は即物性が効果が出やすい。それに効果を測れるのはほぼ即物性のエリアのみだったりする。正しくロジカルで効果が出やすい広告だけになると、息がつまる。多様性が大事だというわりには、手法が多様でないのはなぜなのか。あと、みんなちがってみんないいって広告で言いすぎてみんな同じになってるのも個人的には気になっている。

欧米がよくなくてアジアがよいとは別に思わない。それぞれの良さと悪さがある。カンヌもTCCも、アワード関係なく市井で受けている仕事もそれぞれの良さと悪さがある。あと、合うか合わないかもある。ここで言いたいこととしては、知らないうちに正解としてインストールされている考えは本当に正解なのか?誰によってインストールされたのか?そして、違う正解はまだまだあるんじゃないか。という視点にたとうとするとき、アジア的という考え方のフレームは実は数多の可能性を眠らせているのではないかということです。カオスだからいいんです。無駄があるからいいんです。手法に一貫性がないからいいんです。ミッションもいりません。そんな手法や考え方から生まれた仕事は昔はもっとあったんじゃないかと思うし、今からだってフレームを変えたらまだまだ自由なんじゃないか。企画をするときに、企画をする自分の置き所を変えることで出てくる手法に興味があり、それを使うためには自らのOSをスイッチングできるようになるといいなあと思っている。

と、結局は整理の技術がやっぱり大事だよなと、後半どうやって収束させたらいいのか不安になりながら思ったことをここに白状します。

余談。佐藤可士和すげーんだぞと研究室内にPenのまるごと一冊佐藤可士和を展示して広告業界の魅力を感じさせてくれた、机はとても綺麗だけどロジックは常に破綻していた大学の同級生のことを思い出した。

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