好きな書道の話
書道が、好きです(あのガサツなクノウが、なに書道、とお思いの方もいらっしゃるでしょうが)。はじめて3、4年ぐらい?月2回、先生が出稽古にきてくださるので、なんとか続いてる。もうそろそろ、段がとれそうなとこまでやっとこきました。
静かな部屋で、墨をする音と匂い。無心に筆を運ぶひととき。あの時間と空間がたまらなく好きです。忙しい毎日のなかで(近ごろは実はぜんぜんそんなことないけど)、私にとってはとても大切なものになってます。
最初は楷書。あの学校のお習字ですね。それこそ、「一」からはじめるのです。
楷書を卒業したら、進む道を決めます。そのまま楷書あり、行書あり、草書あり、かなあり。私はかなにしました。ひらがなが入っているほうが、やわらかで、やさしくて、たおやかな感じがしたので。それに俳句や和歌を書くので、読めるし、意味もわかるかなあと思って。(これが、大間違いだったんだけど)
先月のお稽古。課題は小倉百人一首 85番 俊恵法師の
「夜もすがら物思ふころは明けやらで
閨(ねや)のひまさへつれなかりけり」
これ、このまま書けばいいと思うでしょ。それが違うんだなあ。「変体がな」という平安時代がはじまりで、書の世界に受け継がれているかなで書くのです。(「うなぎ」を「う奈ぎ」と書くアレです)
「よも寸可ら物おも
布ころ八あけやらて
年夜農悲まさへ
つ礼奈可梨
介利」
5行に美しくレイアウトされた(天地左右のアキがその歌ごとにいろいろ考えられ、みごとなもんです)、ひらがなも行書も草書も美しく混じったお手本。
いただいた瞬間、いったいこれはなんや〜、どう読めっちゅうねん(なんで大阪弁になるんだろ)。そうです、ただの模様にしか見えず、どう読んだらいいかさっぱりわからないのですよ。意味がわかるとかそんなとこにはとてもいきつけない。だって、ぜんぜん読めないんだもの。
ところが、読めないものがなんで書けるか〜、こんな難しそうなものが私になんてとても書けるわけないよ〜、と思いながらも、じ〜っとお手本を見つめながら筆を運ぶと、これができちゃうのです。びっくり。毎回毎回、不思議なもんだなあってつくづく思います。
習うより慣れろ。継続は力なり。昔の人はよくいったもんですね。コピーもつくづくそうだと思う。と、ここでまとめてもいいんだけど、もうちょっと。(しかし、文章長すぎるね。ダラダラ書くな!)
先生のおすすめもあって、書の展覧会に行くことがあります。わたしがひかれるのは、おおらかで、深くて、たおやかな感じがするもの。チマチマ、ガキッガキッって感じちゃうのは苦手。(ぜんぜん意味わかんないですよね、これじゃ。でも、イメージだからなあ)その人の懐の深さ、人間の豊かさがあらわれてるんじゃないかなあって、思えるものが好きです。
コピーライターのはしくれとしての本日のまとめ。
深さとか豊かさが感じられるコピーを書きたいなあ(特にこんな時代だからこそ)。あっそうか、そのためには自分が豊かじゃなくっちゃダメなんだよね。