リレーコラムについて

天国にビールはない

田村功

高校の英語の先生が読む雑誌に「英語教育」というのがある。
そこの編集部から巻頭エッセイを頼まれた。テーマは「記憶の
中の外国語」だそうだ。今、それを書き終えたところで、頭を
切り替えるのが難しい。ええいっ、その続きをここに書いちゃ
おう。
欧米には、昔からビールにまつわる諺や警句が多い。これは、
その一つ。
He who drinks beer sleeps well.
He who sleeps well cannot sin.
He who does sin goes to heaven.
Amen.
日本語の意味はこうだ。
「ビールを飲む人は、よく眠る。
よく眠る人は、悪事に走らない。
悪事に走らない人は、天国に行ける。
アーメン。」
この言葉、落語で語られる「風が吹けば桶屋が儲かる…」式の
三段論法になっているところが、とても面白い。それで、僕の
記憶に強く焼きつけられた。
14世紀頃にヨーロッパ中で猛威をふるった黒死病のさなか、カ
ソリック教会や修道院は人々にビールを飲ませることにやっき
となった。生水は最も危険な飲み物であったから、代わりにビ
ールを勧めた。ビールを造るとき、麦汁を釜の中に入れて1時
間以上も沸騰させるから、どんな病原菌も死滅する。だから、
喉の渇いた人は生水でなくビールを飲んでいる限り、絶対に黒
死病に罹らない。
しかし、中世の牧師や修道士は、そのようには説明しなかった。
今でこそ、煮沸によって病原菌が死ぬことが知られているが、
その当時はまだそこまで科学的な解明ができていなかったから
だ。修道士たちは、神のご加護のせいにしてビールの安全性を
民衆に説いて回った。
ビールの守護聖人として崇められているセント・アルノーとい
う修道士は、人々をビールの煮沸釜の前に呼び寄せて、こう言
った。
「さぁ、よく見なさい。わたしの胸にある十字架を、今、この
煮沸釜の中に入れます。これでもう、黒死病をもたらす悪魔は、
神への怖れのもとに退散しました。喉が渇いた人は、神に感謝
してこのビールを飲んでください」
それでも、民衆が生水を飲む習慣はいっこうに改まらなかった
らしい。黒死病は、フランスからドイツ、オランダ、ポーラン
ドへと蔓延していった。
そこで、修道士たちはもっと効果的なコピーを考え出した。
There is no beer in heaven,
that’s why we must drink it here.
「天国にはビールがない。生きているうちに飲みなさい。」
それまで民衆は、天国へ行ってもビールを飲めるものと信じ込
んでいた。なにしろ、ヨーロッパの修道院ではどこでもビール
を造って人々に分け与えていたから。それが、違うと分かって
みんなビックリ。先を競ってビールを飲み出したという。
それが効をなしたのかどうか定かではないが、黒死病は14世紀
の半ば過ぎに衰え始め、やがて終焉した。

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