別れについて
姉貴が大病をした。
何しろ、かなり悪性のウイルスが腎臓を侵しているらしい。
姉貴が9歳、私がまだ4歳の頃の話である。
病名は腎不全だった。低年齢だと生死に関わる病気である。
「お子様の年齢と体力を考えると“もしも…”のことも覚悟しておいてください。」
いよいよ入院の当日、主治医は両親にそう告げた。
当時、家族は父の転勤の都合で神戸の六甲に住んでいた。
社宅だったので、同年代の子どもも多く、彼らといつも近所で遊んでいたように思う。
だが姉貴が入院してからは、毎日通う母の後ろにくっついて病院へ行くようになったので疎遠になった。
友達とは遊べなくなったが退屈ではなかった。
電車とバスを乗り継いで、母とふたり、遠足気分で楽しかったのである。
病院での母は看護で忙しいので、私はひとり児童ルームで絵本を読むことが多かった。
「しばらく、お母さんと離れて暮らさなければならないの。」
ある日、いつものようにルームで絵本を読んでいると、母はいきなりそう切り出した。
理由の発端は、父の転勤だった。今度は東京である。
本来ならば家族全員で東京へ引っ越して暮らしたいところだが、
その頃の姉貴は、病院を移すことさえも出来ない病状にまで悪化していたのである。
仕方なく父は単身赴任することになり、母と姉貴はそのまま神戸に残ることになった。
そして私は、看護と家事の両立が限界にきていた母の負担を少しでも軽くするためにと、
大船の叔母の家にひとり預けられることになった。
母としては、それに断固反対したらしいが、父と祖母の再三の説得で渋々承諾したという。
両親の苦渋の選択ではあるが、幼い私には、一時的にせよ家族離散の状況はあまりにも辛すぎた。
私は、母が言い終わらぬうちに、わめき散らすように泣いた。
「何でも手伝うから、離れるのは嫌だっ!」と懇願した。
それに対して母は決して泣きもせず、落ち着いて私を諭していた。
私には母の冷静な態度が信じられなかった。見捨てられた、と思った。
しかし今思えば、母が気丈でいようとしたのは、
自分も一旦涙を見せたら、私と同じくひたすら泣いてしまうからだったと思う。
私は、その晩いつまでもメソメソ泣いていた。
あの時の児童ルームの光景は今でも記憶の中に焼きついている。
大船へ行く当日、母は私に一冊のスケッチブックを渡してくれた。
開けてみると、児童ルームでいつも見ていた、一番大好きだった絵本が模写してあった。
外国で出版された絵本だったから、本屋で売ってないと思ったのだろう、
母の手で、一ページずつ描かれてあった。水彩絵の具で丁寧に着色もしてあった。
私は、母が忙しい時間の合間を見つけて描いていたことをちっとも知らずに驚いた。
叔母と一緒に新幹線に乗るとき、私は見送りに来た母の顔を一度も見ようとしなかった。
座席に座り、母に手を振るように叔母に促されても決して振らずに下を向いていた。
顔を見ればまた泣いてしまうからだ。
また、大泣きすれば母がきっと心配する。
心配させないためにも、私は母に絶対涙を見せまいと心に誓っていたのだ。
それが、母に対しての精一杯の思いやりのつもりだった。
だから、別れ際の母の顔を私は、知らない。
私には、もうすぐ2歳になる息子がいる。
顔は幼い頃の自分によく似ている。とくに笑ったときと、泣いたときはソックリだ。
遊んで転んだり、眠くて甘えたりするときに、大泣きして妻の姿を探している表情を見ると、
つい、神戸のあの時の自分を思い出してしまう。
姉貴は奇跡的に回復の方向へ向かった。
しかし、家族全員が一緒に暮らすには、それからかなりの時間がかかった。
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