北風とアルマーニ
会社を辞める時は、まだ好きなのに女の人と別れるような気持ちであった。
広告という仕事も好きだし、博報堂という会社も大好きだった。
でも僕のほうにやむにやまれぬ事情があるのだ。
会社は僕を契約社員にしてくれた。
「お別れはするけどお友達でいましょう。これからも時々会えるといいわね」という感じである。
男が勝手を言ったのに泣けてくる。いい女ではないか。
やむにやまれぬ事情というのは、主催していた劇団のことである。
僕の脚本が遅いことが積み重なってみんなに酷い思いをさせてしまったのだ。
事は、演劇を取るか、会社をとるか、というところまで来てしまった。
いままで決断をズルズル引き伸ばしてきたダメダメ君にとうとうツケが回ってきた、という感じであった。
芝居の打ち上げで「会社辞めるぞ!」と劇団員に宣言してしまい、その翌日、当時の上司の耳元に「会社辞めます」と囁き走って逃げた。
臆病者は、こんなふうにしか会社を辞められないのであった。
辞めてしばらくは、ほんとうに心細かった。環境はとても恵まれている。
脚本家としての仕事はいくつか決まっていたし、会社も「お友達でいましょうね」と言ってくれている。
なのに、心細い。これからは一人で世の中と渡り合ってゆかねばならない。
武器は自分の言葉と感性だけなのだ。
いままでいかに自分が会社に守られてきたかを思い知った。
北風に向かって裸で歩いてるような気分である。
そしてようやく、フリーのクリエイターの人たちが、オシャレな服を着たり、高級な外車に乗ったりする意味がわかった。そうでもしないと、自分が何者かが自分に証明できないのである。
きっとそうだ。
一人で生きていくには、世間の北風に立ち向かうための、オシャレな鎧が必要なのかもしれない。
僕は初めてアルマーニのジャケットを買った。
僕はそんなちゃんとしたことを一度も考えずズルズル生きてきた人間であった。