溶岩お婆さん
高橋一起
●ビジネス社会を離れ、1年間の山暮らしをしていたときのことです。
「家事は尊いよ」とそのお婆さんは言った。
溶岩が冷えて固まったような顔貌。
生活改善クラブ「こだま会」の売店で店番をやっているお婆さん。
そこではキュウリ、キャベツ、サヤエンドウなどを朝採って並べている。
ほかに、江戸時代から継承しているオツケ団子、広辞苑ぐらいはある豆腐、
わらじ、肩たたきなどもある。
群馬県吾妻郡。浅間山麓、標高1200メートルの森の住人になって間もないころのことだ。
キュウリが1本たったの10円。都会では超特価になってもせいぜい3本100円だというのに。
10本も買うと、もう一掴み(3、4本)おまけがつく。
曲がったキュウリはバケツに入れてあって、「好きなだけ持ってきな」と言う。
「わたしの作ったものがね、人に喜ばれると嬉しいもんだよ。金額にはかえられん」
溶岩お婆さんはほがらかに笑った。
妻がそれを聞いて言った。
「えらいわねえ。わたしなんか、家事しかすることがないから」
すると冒頭の言葉が跳ねかえってきたのだった。家事は尊いと。
そして、とても丁寧につけ加えた。
「年をとると、夫が心から感謝してくれますよ」
教養を短絡的に学識におきかえる人がよくいるが、ぼくはつねづね、
人間にとって何が大切かをわかっていること、それが教養ではないかと思っていた。
ぼくは溶岩お婆さんの、性差などもともとなかったかのような
ゴツゴツとした顔貌をあらためて眺めた。
こんな教養人に、浅間山の奥の、路傍の売店で出会えるなんて。
「もうお昼は食ったのかい」お婆さんは言う。「オカラをご馳走するがね」
ありがたくご馳走になった。
溶岩お婆さんは、言うまでもなく真っ黒い顔をしている。
しかし、弁当箱いっぱいに詰まったオカラは、生まれて初めてみる白さだった。
しょうゆの色が染みていない。
食べると上品な塩味で、高貴な香りさえ広がった。
その感想を正直に言うと、
「60年も主婦やって、少しは進歩せんと自分がつまらんでしょう?」と平然としている。
それから妻に作り方を教授し始めた。
溶岩お婆さんがリーダーの生活改善クラブは、県から10回以上も表彰されたという。
売店の木の壁には、額に入った表彰状がずらりと並んでいる。
暮らしに工夫を重ねてきた成果らしい。
ためしに、どんな工夫か尋ねてみた。
「その秘訣はね」と溶岩から削りだした口をお婆さんは開いた。
「夫や子供や、いっしょに住んどる年寄りに、どうしたら喜ばれるか、それを考えることよ」
ぼくは、思わず頭を垂れた。
山の暮らしのカルチャー・ショック、これがその第1号だ。
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