スピード。間。ニュアンス。
高橋一起
●ビジネス社会を離れ、1年間の山暮らしをしていたときのことです。
観光シーズンは東京から人が来る。
すると、車のスピードが20〜30キロは速くなる。
オフはどうだろう。観光客などひとりもいない。
車は老人が歩くようにゆっくり走っている。
地元の人は決してとばさないのだ。
話し方のテンポもゆったりしている。
たとえば、「きょうは朝から雨だ」と言うとする。
ビジネス社会ではそのとおり、無駄なくしゃべる。
伝えるべき意味内容を効率よく言語化する。
それが、この山の人たちにかかると、こうなる。
「きょうは、なんとまあ、やなことだがや。朝からもう、ほれ、なあ、こんとおり雨で、
気がふさぐなあ、おタケさんや」と、5倍も6倍も時間をかける。
言葉と言葉の間に、なんども息をつぐ。寄り道をする。立ち止まる。
しかし、すでにお察しのとおり、その話を聞いていると、
浮かび上がった「間」に、景色が見えてくる。
その人の気持がわき上がる。降っている雨の重みまで感じられる。
合理的。機能的。そこでふるい落とされるニュアンスがある。
東京人の言葉が切り口上に聞こえるのはそのせいだろう。
抑揚の中に、無駄の中に、人間が現れる。
ぼくは生来の口下手で、あのう、そのうと
納豆のからまった箸を上げ下げするような話し方しかできない。
しかしそのぼくでさえ、ここに住むと、自分がいかに早口かがわかる。
すぐに車間を詰めるのも悪い癖だと知った。
混んだ都会では、必要以上に車間をあけると迷惑だ。
が、ここは違う。つい都会の感覚で走っていると、次の信号で停まったとき、
「何か用かね」と、前車のおじいさんが顔を出す。
速度というのも、周囲の草木の呼吸が感じられるほど緩めると、
そこに「いち早く目的地に到達する」という目的以外の
愉しみが生まれるということがよくわかった。
あえて無駄をしよう、寄り道をしよう、そう思った。のではあるが、
次の瞬間、それは無駄でも寄り道でもなく、本来の人間に還るということではないか、
どうあるのが人間的なことなのか、なんて、トツゼン哲学的命題に行き当たったりする。
山の暮らしのカルチャー・ショック。これがその第2号だ。
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