この広告の、ときめきを。
小池光洋
「ナイフのような、ナイーブ」という眞木準さんの言葉に、指先を紙で切ったような思春期の痛みを確かに感じました。「拳骨で読め。乳房で読め。」という糸井重里さんの言葉に、文学に耐性がない頃の疼くような衝動が蘇えりました。「おじいちゃんにも、セックスを。」という前田知巳さんの言葉に、まだ知らぬ老いた自分の焦れるような性欲が身体を貫いていきました。
達者な広告制作者の言葉は、肉体を持っています。そこにあるのは、他者との同一化の技術。それは、無限の優しさであったり、いたわりであったり、時には怒りや憎しみであったり。それがあるから、人は血を流すことなく血を流す痛みを知ることができる。広告の持つ本質的な機能、たとえば、メルセデスに乗ることなくメルセデスに乗る喜びを体感できる、ということと完全に同質です。そこで、思うのです。戦場に立たないものに、戦場に立つことの痛みを伝えられたら。投石を受けたことのないものに、投石の痛みを伝えられたら。たとえば、中国の反日デモのあり方も、今回のようなことにはならなかったかもしれません。
上辺だけで生きている日常の中で、本能を掘り起こし、欲望を掘り起こし、鮮やかな亀裂を生じさせ、一瞬、爽やかともいえる衝動に身をまかせて動物としての確かな自分になる。そうなったときの手ごたえと痛みと喜びを言葉を通じて肉体に刻む。己の原罪と真実をリアルに自覚する。本当にしたいことを見極める。ぎりぎりのところで押しとどめなければならないことを知る。広告の機能も、歴史の教科書がすべきことも、本質的には同じなんじゃないかな、とふと思いました。そこに施政者の、肉体を持たず意図だけを持った言葉が紛れ込むと心の歯車は狂いだすんじゃないでしょうか。今回の中国の反日デモをコピーライターの視点で総括すると、こういうことになるんじゃないかな。
歴史の真実は、常に闇の中にあります。確認された事実ですら、歴史観というフィルターによって、まったく違う位相を持つこともあるはずです。でも、歴史の登場人物たちの痛みや悲しみは、確実に存在しました。たとえば名うてのコピーライターたちが歴史の教科書づくりに参加したら、私たちの未来をちょっとだけ明るくできるんじゃないか、そんな夢のようなことを考えています。肉体を持った言葉で書かれた教科書って、いいと思いませんか。僕は読んでみたいし、書いてみたいと思います。
(徒然なるままに書いてきたので、とりとめがなくなってしまいました。明日は書き残したことを、もうちょっとだけ書いてみたいと思います。)
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