世界は、広告を待っている。
小池光洋
辛いカレーが大好きです。会社からぎりぎり徒歩圏の「辛口料理 ハチ」という店のカレーを、恋に恋する少女のようにいつも想っています。聞いた話ですが唐辛子の辛さというのは脳にとっては味覚ではなく触覚(痛み!)なんだそうで。そっか、僕は、あの「痛み」を愛していたのか。カレーを味わい、痛みを味わうことで、自分が肉体であることの生身のもろさを舌の上に躍らせていたのか。とするとカレーについて書くという行為は、辛さという痛みを誰かと分かち合う行為ということになります。まさに、広告の得意技。
肉体の感触を言葉にする。この得意技を駆使してコピーライター大集合で教科書をつくれたら、という夢を昨日書かせていただきました。これ、本当に実現したい。お行儀のよい、きれいごとだけの言葉は人から身体性のリアリティを奪うばかりです。そんな言葉でつづられた教科書は、教育のためにならない!人のためにならない!触れば血のでるような言葉で書かれた教科書を使っていれば、たとえば中国の反日デモみたいなことにはならなかったはずです。(と、ひとりのコピーライターとして信じたい)
広告の言語はきれいごとでないだけに、ある意味容赦がありません。たとえば滝沢てつやさんは、あるラジオCMの中で次のように書いています。
寿司屋:はいはいはい、お待ち…。
客:ん?うまいじゃない。
寿司屋:でしょう。
客:何だ、もういやだな、おじさん。ね、これ、ネタ何?ネタ
寿司屋:魚の死体ですよ。
客:…!
食べるということの真実を、「死」という痛みを伴う言葉で描く。たとえば、これを教材として子供たちに食べること、生きることの真実を教えられたら、命の重みを今よりも深くずっしりと受け止めてくれるかもしれません。
科目のあり方も国語算数理科社会なんていう縦割りはいかにも嘘くさい。ひとつの目的に対してあらゆるメディア(科目)が入り乱れるキャンペーン・スタイルの科目にした方が現実的だし本当っぽい。「食べる」という科目があったとしたら、食の文学、食の生物学、食べることの哲学、政治、経済、音楽や体育までが縦横無尽に広告キャンペーン的に構築された教科書はどうでしょう。いかにも楽しいし、ぜひ作ってみたい。
広告の言葉で、一緒に教科書をつくってみませんか?きっと世界は今よりはるかに平和で、あったかくて、居心地のいい、そして間の抜けたゆる〜い場所になれるんじゃないかな。
さてさて本当はこの一週間、パット・メセニーのこととか、ジャック・ジョンソンのこととか、ケリー・スレーターのこととか、アンディ・ガルシアのこととか、仮面ライダー響鬼のこととか、母の手料理のこととか、僕の手料理のこととか、愛する姪のこととか、とりとめもなく書こうと思っていたのですが、なにしろあの反日デモ報道に矢も楯もたまらなくなっちゃって、大人気なくッてスミマセン。次週は心機一転、石崎晃代さんという美しい万年少女ライターが爽やかな風を吹き込んでくれるはずです。オタノシミニ。
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