正田先生
講道館柔道三段、身長150センチ。
私が高校時代に教わった、英語の先生である。
英語の授業が来るたびに生徒たちの胃はキリキリと痛んだ。
予習を怠って答えられないときには、命の保証すらない。そんな授業だった。
正田先生は、毎年夏休みになると、
希望する生徒をハワイに連れて行き語学研修を行っていた。
1ドル240円、70年代最後の年、
私は、島のはずれの大学で一ヶ月間、英語漬けの毎日を過ごすことになった。
先生には留学経験はなかったが、
座学で習得した独特の英語を使いこなした。
地元の学校と交渉を重ね、生徒たちを現地の学生と交流させる会を幾度となく開いた。
そして、そこで溶け込もうしない生徒たちのことを、勇気がないと容赦なく責めた。
真珠湾にも連れて行かれた。
壁に描かれた悪役日本の絵に衝撃を受けていると、
先生は、
「自分たちの国がしたことを、覚えておけ。」
とだけ言った。
日系人の家庭で、移民した先で自分の国に攻撃される悲しみを聞かされたときにも、
先生はやはり、「覚えておけ。」とだけ言った。
ある晩、酒に酔った褐色の大男が寮に乱入してきたことがあった。
大声でわめきながら、ラウンジでくつろいでいた生徒たちを殴りはじめたのだ。
私たちが恐怖で動けなくなっていると、生徒に呼ばれた先生がやって来て、
部屋に帰って鍵をかけろと言う。
そして男のほうに向かって行った。
薄情にも私たちは部屋に飛び込むと、鍵を掛け椅子でドアをふさいだ。
なにやら二人の怒号が聞こえたが、そんなときだけは先生の教えを守り、
朝まで部屋から出ることはなかった。
体格差は、ざっと二倍。
先生は生きていないだろうとも思ったが、
翌朝、何もなかったかのように食堂でパンを食べていた。
生徒のひとりが窓から見ていた。
先生は、襲い掛かってきた大男に背負い投げを決め、
うめき声を上げた男は立ち上がると、そのまま走って逃げたのだそうだ。
地元の多くの大人たちに助けられ、一ヶ月の研修が終わると、
たくましくなった男子が50人ほど出来上がっていた。
「ここで得たことの恩返しをしようなどと考えなくていい。
勉強しろ。そして大人になったとき、次の世代に伝えるのだ。」
先生はそう言った。
数年後、就職が決まりハワイを旅行したときに、ふらりとそこの大学を訪れてみた。
当時、世話をしてくれた教授のひとりが話をしてくれた。
東京の大学にいたとき、先生は原爆で家族をすべて亡くされていた。
それでも先生は毎年、生徒たちをハワイに連れて行ったのだ。
争いは、お互いを知らないことから起こる。
友がいる国との戦いを願うものはいない。
先生はそう信じていた。
教授は、概ねそのようなことを言った。
英語は、平和の道具のひとつ。
その言葉と共に、私は毎年、この季節になると先生のことを思い出す。
大正、昭和、平成を生き抜いた小さな巨人は、
1999年8月15日、73年の生涯を閉じた。
奇しくも終戦記念日だった。
正田先生。
男の中の、男であった。