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憎悪に満ちた内容だった。誰だ!誰が書いたんだ?!一瞬自分に何が起こっているのか理解できない。全身の血の気がひいてゆき、凍りついた。反対に心臓の鼓動は熱く張り裂けんばかりに打っている。自分が生きているのか死んでいるのかわからないくらいのショック。中学2年3学期の始業式。僕のバッグの中に「脅迫状」が入っていた。筆跡がわざと崩して書いてある。誰が書いたか分からない。誰が書いたかわからないようにしたのだという事実が、また僕をいっそう怖がらせた。筆圧は強く醜い。「おまえのひみつ、しっとうねんぞ。おまえ、ちょうせんやろ、おれ、しっとんやぞ、ちょうせんは、ちょうせんにかえれ、いちびんな、しね、ちょんこ、おまえの、おかんころしたるからな、ちょうせん、しね…」そんな脅迫が便箋3枚にびっしりあった。僕は慌ててそれを隠して、休み時間の教室を徹底的に監視した。お前か…お前か…それともお前か…。この中の誰かが書いたことは確かなんだ。犯人を絶対突きとめてやる、その一心で一人一人の顔を必死で睨みつけてゆく。お前か…それともお前か…。いつもとなんら変わらない、笑っている顔、顔、顔。しかしそれらは、まるで僕のことをざまぁみろとあざ笑っているかのようにしか見えない。「玉ちゃん、どないしたん?」様子がおかしい僕を心配して声をかけてきてくれる友だちもいたが、そういうお前こそ、書いたんちゃうんか!ともっと強い猜疑心の目で睨みつけた。あれから少しの時間しか経っていないのに、へとへとに疲れている。気分が悪い。眩暈や吐き気がする。その日はすぐに早退した、というより逃げるように学校を出た。帰り道、自然と涙があふれてきた。悔しくて、悲しくて、痛くて、憎くて、苦しくて、恐くて。いろんな感情が交差する。なんでこんな目に合わなあかんのやろう?という素朴な質問を繰り返し自分に問うては絶望し、問うては絶望した。差別の恐ろしさは、その理由のないところにある。なんとなく差別し、なんとなく差別される。でも、その「なんとなく」は、「なんとなく」なくなることがない。それが厄介なのだ。差別を受けて死にたいと思ったことは何回もあったが、今日ほどそれを強く思ったことがない。でも死んだりはしない。死ぬべき人間は、それを送りつけた人間の方だと思ったから。いつのまにか家の前にいた。家に入る前に涙をふく。帰ってもお母ちゃんには風邪とかなんか言って、脅迫状のことは一切言わなかった。いつものように、そう、いつものように…。いじめられて帰ってきても、お母ちゃんやお父ちゃんには、決して言わなかった。「心配させるだけだ」それが、僕の両親に対するひとつの愛情表現だったのかもしれない。
僕は神戸の下町で、在日韓国人の三世として生まれた。本名は、全貴康。お父ちゃんは、大阪ガスの下請会社のそのまた下請けをしていた。個人でガス工事に使う配管を運んでいた。自分でトラックを持ち、夜間工事のときにガス管を現場へ運ぶのだ。母は、家でミシン工の内職をしていた。ゴム工場からいろんな形のケミカルシューズの型がくる。それを貼り付けたり縫ったりして加工する。一足、何円何銭という世界で、毎日驚くほどの量をこなしていた。毎朝、お母ちゃんのミシンの音が目覚まし代わりだった。決して裕福ではなかったけれど普通の幸せな家庭だった。しかし、なんかおかしい。普通の家と何かが違う。そう感じたのは、小学校低学年の頃だったと思う。
「お母ちゃん、なんでうちの家、正月やのに、おせち料理食べへんの?」いつも不思議に思っていたことを法事に行く途中の車の中で聞いてみた。玉山家の正月は、おせちを食べない。元旦、父親の実家に親戚が集まり法事をする。韓国料理やお酒がいっぱい並んだテーブルの向こう側に屏風をたて、男性だけが2回ずつ礼をする。そして、すべての料理から一片だけを取って鉄製のお椀にいれてゆく。ご先祖様が食事をしているという意味らしい。それがしきたり。毎年、欠かさずその1時間ほどの法事はしなくちゃいけなかった。「貴康、あんたは日本人とちゃうねん、韓国人やねん」僕の質問にお母ちゃんがそう答えた。お父ちゃんは黙って運転していた。僕はにわかにその言葉を受け入れることができなかった。日本に住んでいて日本語しか話せないのに、日本人じゃないってどういうこと??信じられなかった。いや、信じたくなかった。許せなかった。ものすごくいじめられるし。そう、本当によくいじめられた。教室の机の中に、ゴミが入っていたり、自分のイスがなかったり、持ち物がなくなっていたり、待ち伏せされてボコられたり、顔をみたら、チョンコ、チョンコと言われた。そのチョンコの意味が、僕にはわからなかったのだ。でも、許せなかった本当の理由は、いじめられるからではなかった。自分もどこかで韓国を差別していたのだ。自分を、お母ちゃんを、お父ちゃんを差別していたのだ。この気持ちは何だろう。いつからだろう。差別することなんて誰に教えられたわけでもないのに。いつのまにか自分を含む周りの人を理由もなく蔑視している。学校では、日本人のように振舞った。国籍がばれることを人一倍恐れた。しかし、お母ちゃんは、「韓国人であること」に誇りを持て、常々言っていた。でもどうしても僕は持てなかった。韓国のことなんて何も知らないし、とにかく日本人になりたかった。日本人でええやん、と思った。お母ちゃんは、家でキムチやピビンバなどの韓国料理を出しても、僕は食べようとしなかった。それを食べてしまうと、本物の韓国人になってしまう気がしたからだ。それほどあの当時の僕は子供だったとはいえ、自分の境遇を憎んだ。親戚の結婚式にチマチョゴリを着た母を見て、「なんでそんなん着るんや」と心底思ったし、無関係を装うために距離を置いて歩いた。卒業式に受け取る卒業証書の名前には、一度も呼ばれたことのない本名の「全」の名前で書かれてあった。それもたまらなく嫌だった。高校のときは、先生に玉山の名前でお願いしたこともあったが、キマリだからということで変えてくれなかった。しかし、小、中、高の先生たちは配慮して、式で名前を読み上げるときは、「玉山」のほうで呼んだ。クラスメイト同士が卒業証書を見せ合っている中、僕は隠すように、急いで黒い筒に巻き入れた。
人が人を理由もなく、もしくは理由にはならない理由で忌み嫌う「差別」を受けながら、僕は育った。人間の醜さを目の当たりに感じてきたことが僕の原点のような気がする。