コピーの上に朝がきた〜
TCC1期生です。古い話でお退屈様です。
コピーといえばカーボンコピーか青焼きの複写コピーのことでした。
「コピーライターにでもなったらって豊さんが言ってたわよ」
1959年春のこと。慎太郎や健三郎を追って小説家デビューを
夢見ている弟を見兼ねて、姉が親友に相談しました。
親友の旦那さんが広告デザイナーだった杉田豊さん。
鮮やかでファンタジックなイラストレーションも描く人で、
後に世界的に有名な絵本作家になりました。
コピーライターって? 広告の文案家? どうすりゃなれるのですか?
西尾忠久さんや梶祐輔さんがマジソン街の広告作法を
日本に紹介する何年も前のことです。
杉田さんの言うままに道を歩き出したのですが、
その指さした道というのが、いま思えば驚きの先見。
「コピーはまだデザインの一部として扱われているけれど、
これからの広告はコピーライター先導の仕事になる。
コピーはビジュアルとともにある表現だし、
必ずデザインされて表現されるもの。
いまは文学者志望だった人が多くコピーライターになっている。
デザインの勉強をしてからコピーライターになるといい」
で、どこへいけばいいの?
美術大学の入学試験はもう終わっていました。
「桑沢っていう2年制のところが渋谷にある」
デザインという集団創造の面白さに、文学を忘れました。
隣のクラスに、浅葉克己、青葉益輝などがいました。
私はレタリングとタイポグラフィのトリコになりました。
そのポスターを山城隆一さんに認められて、
卒業前に日本デザインセンターに就職しました。
その初日、私がコピーライターになりたいのですと言うと、
そのずっと前、コピーも書いていたという山城さんは笑って、
それならこっちの部屋だ、とコピーの部屋に案内してくれました。
チーフコピーライター(ディレクターという呼称はなかった)が、
当時すでに大御所の梶さん、西尾さん、蟻田善三さんの三人。
それぞれに3、4人のコピーライターがついていました。
いまのTCCの名簿にほとんどの人の名前がありません。
私は西尾さんのチームに配属されました。
「ボクも今日からです」と西尾さんが言いました。
その日から数年して、たちまち、日本の広告界は、
「まずメッセージ・コピーあり」の流儀がひろがり、
クリエイティブなんていう言葉が使われるようになりました。
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