うまずい
みなさまこんにちは。
25年後の社長を本気でめざす吉田一馬と、
コピーと娘を溺れ死ぬほど愛する板東英樹と、
ミスター便通西日本の川口修のあとを受けて、
リレーコラムを執筆させていただく
清水清春と申します。
今週一週間、どうぞお付き合いのほどお願いいたします。
では。
こわいもの見たさと同じように、
まずいもの食いたさ、という衝動が人にはあると思う。
少なくとも友人のアートディレクターの
ゲンちゃんにはある。
そしてこの私にも少なからず、ある。
ゲンちゃんはそれを「うまずい」と呼んだ。
一応こんな時代なのでネットで検索してみると、
「うまずい」という言葉はけっこう存在している。
ただそれらはキワモノのヘンテコな食べ物だったり
いわゆるB級グルメ的なメニューだったり
あるいは本当にまずい料理だったりを指している場合が
多いのだが、我々の「うまずい」は、そうではない。
決してうまくはないけれど、致命的にまずくもない。
いやむしろ、その微妙なまずさが後を引いて、
いつの間にかまた食べたくなってしまうという、
ある種悪魔的な魅力を潜めているとても危険な料理。
それが我々の「うまずい」である。
かつて私が神戸支社に勤務していたころ、
さんちかに一軒のとんこつラーメン屋があった。
昼時ともなれば地下街のあちこちで行列ができるほど
混雑しているのに、その店はいつもお客が2~3人だった。
あきらかにあやしい。それでもラーメン好きの
私とゲンちゃんが打合せの合間に
「空いてるから、ま、ええか」と入ったのが
悪魔との出会いだった。
「いらっしゃい~」
とやる気60%くらいのユルいおばちゃんが水を置き、
注文したのはラーメン屋定番の「半チャンラーメン」。
記憶が定かではないが、出てくるのに
20分ほどかかったような気がする。
そんなに待つなら行列に並んで
カレーでも食べた方が早かった。
出てきたラーメンのスープを一口すすると、
我々は即座に客が少ない理由を理解した。
とんこつの臭みが抜けきれず、それでいて
見事にコクがない。
麺はというと、ゆがき方が中途半端で
表面はやわいが芯は微妙にかため。
チャーハンはこれまた理想のパラパラとは程遠く
皿の上で油とともにペショってしまっている。
紅ショウガとコショウをふだんより多めに入れて
勢いをつけかきこむ。
そしておしまいに、もう一度おそるおそるスープを・・・
と、うまくないことはわかっているのに、なぜかひと口、
そしてもうひと口とれんげを口に運んでしまうのだこれが。
「ありがとやした~」
最後までやる気60%のおばちゃんの声を後にして
店を出たとたん、「なんなんやろな、あれ」
と我々は顔を見合わせた。
いやうまくはない。むしろまずいとさえ言っていい。
それでもスープを飲み終えたときの
あの微妙に後を引く味わいは何だろう。
一見で入ったスナックのママが決して美人じゃなく
「失敗したかなー」と思ったけど店を出る時
見えなくなるまで見送ってくれて
なぜか「こんな店もええかな」と思えてくる、
あの感覚に近いのかもしれない。
「あー、うまずかった」
「たぶんもう行かんけど」
そう言った二人だったが、実はその後も私はたまーに、
一人でこっそりとあの店のうまずいラーメンを食べていた。
なぜだろう、1カ月に1~2度、あの味を
忘れそうになった頃に決まってふと食べてしまうのだ。
そんなある日の午後、ゲンちゃんからメールが来た。
「きょう、神戸に行ったよ」
「大阪からわざわざ来たんなら
昼飯でも一緒に行けばよかったな」
そう返事すると
「いやいや、その昼飯を食べに行ってん。
あのうまずいラーメン」。
ゲンちゃん、君もそうだったのか。
しかしうまずいラーメンを食べるためだけに
新快速で大阪からくるやなんて、
どんだけうまずいもん好きやねん!
ほどなくして、その店はなくなってしまった。
ゲンちゃんはひどく残念がり、
しばらく神戸に来なくなった。
店は替わって微妙にきれいな中華料理店になった。
一度行ってみたが、「うまずい」ではなく
「こまずい」だった。
この国から失われつつある「うまずい」店と料理を
なんとか守っていかなければいけない。
そんなことを多少真剣に考えた私とゲンちゃんだった。