徒歩帰宅の夜
2年前の3月11日、東京で勤めている多くの人と同じく、歩いて家に帰った。
勤め先のある赤坂から外堀通りに出てみると、歩道を埋めつくす人の流れができていた。日本橋を通りすぎて江戸通りに出ても人の流れの密度はほとんど変わらない。神田川を渡ったあたりから通り沿いにぽつぽつと営業中の居酒屋やワインバーなどが増えてくる。どの店もグループ客で混んでいて、いつもより賑わっているように見えた。その日は家に帰るのをあきらめて職場に泊まりこむことにした人たちが、同僚同士で酒盛りをしていたのかもしれない。
浅草にたどり着いたのは10時をすこし過ぎた頃だった。ここまで来れば墨田区にある家まではタクシーで2メーターほどの距離だ。もちろん客待ちをしているタクシーは1台もなかったけど、いくらか気持ちに余裕ができたので、近くにあるバーに寄ってみることにした。
表通りから路地を曲がると、店のあかりが灯っているのが見えた。どうやら営業しているようだ。店に入ってトイレを借りてから、まずはウィスキーのソーダ割りを注文する。
「お酒の瓶は大丈夫だったの?」
「揺れの方向が酒棚と平行だったので、なんとか無事でした」
「グラスは?」
「それはもう店の人間全員が棚にはりついて手で押さえましたよ」
カウンターの中には見習いの若い女性バーテンダーもいる。このバーの本店は大阪にあって、つい10日ほど前に浅草に支店を出したばかり。だから酒もグラスもまだほとんど「さら」の状態で、その時の店の人たちの気持ちが思いやられた。
店の奥に先客が1人いて、だいぶ赤い顔をしている。店の人との会話を聞いてると、自宅は成田にあって、もう今夜は帰らないつもりらしい。もう1杯飲みたかったけれど、ここで酔ってしまうと自分も帰るのがいやになりそうな気がして、1杯だけで勘定をすませて店を出た。
先週の金曜日、仕事の帰りにこのバーに寄ってみた。2年前と同じウィスキーのソーダ割りを飲みながらバーテンダーとあの夜の話をしていると、横にいた客がやおら話しかけてきた。
「あの晩、この店でお目にかかったと思います」
「あの日はたしか他に1人しか客がいなかったと思いますが」
「わたしこの店で夕方の6時から閉店まで飲んでましたから」
「あ、成田にお住まいの?」
「そーですそーですそーです!」
結局あの夜は谷中にある知り合いの家に泊めてもらったという。
「翌朝も電車がまだ動いてなくて、仕方がないから昼ごろまで上野動物園で時間をつぶしました」
これから奥さんと待ち合わせてコンサートに行く予定だとかで、まもなくそのお客さんは店を出て行った。ちょっと考えてから、やっぱりもう1杯飲むことにする。
2年前と同じで、どうせ家に帰っても誰もいないしね。