ラジオはONのまま眠る。
部屋の明かりは消す。ブラインドはおろさない。木々の間から遠い灯が見える。CDをFMに切りかえる。眠る。7時にピーター・バラカンがスタジオに入る。その声で目がさめる。最高のモーニングコールだ。
東京郊外の高校に通っていた頃、昼は立川や吉祥寺でアメリカ映画を見て、夜はラジオを聴いた。FENトウキョウ。文化放送のS盤アワー、ラジオ東京のL盤アワー。Sは日本ビクターSP盤の商品番号でペリー・コモ、ハリー・ベラフォンテ、エルヴィス・プレスリーをこの番組で聴いた。Lはコロンビアの商品番号で女性シンガーが多くドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」ジョー・スタフォードの「霧のロンドンブリッジ」がヒットした。これらの曲は夏の花火や蚊取線香の匂いを思い出させる。湿った、何事もない、東京の田舎の夏。夜の闇で木々が呼吸していた。
大学2年、3年の夏は軽井沢のホテルでバイトをした。夜半めざめるとかすかにラジオのノイズがし、窓の外をホタルが飛んでいた。「ヒットパレード」「しゃぼん玉ホリデー」「夢で逢いましょう」「11P.M.」テレビには花があり、ラジオは遠くなった。
1970年代の深夜、FM東京で片岡義男がDJをやっていた。「FM25時 きまぐれ飛行船」。アメリカ南部のブルースがよくかかった。その番組を片岡義男を聞くために聴いていた。当時、氏は「白い波の荒野へ」「友よ、また逢おう」「ロンサム・カウボーイ」を書いたばかりだった。パイオニアでカーオーディオが発売され、その広告をつくることになった。商品名「ロンサム・カーボーイ」を登録し、ナレーターを片岡さんに依頼して撮影の旅に出た。深夜、どことも知れぬモーテルのパーキングで後に「アクロス・ザ・ボーダーライン」というタイトルがついたライ・クーダーのデモテープを聞いた。遠くでウォーレン・ウォーツの吸うタバコの火が見えた。あの頃、広告はスポーツだった。
去年、久しぶりにアメリカ南西部をロングドライブした。赤い荒野、メサ、黒い雲が出るとカーテンのように雨が見える。ラジオはどの局もスペイン語で、ふと無音になるとユタに入っていた。
1987年にJ‐WAVEが開局した。番組はロサンゼルスそのもので、すべてウエストハリウッドで録音し、パックされて送られて来ていた。
幸運にもその番組を編成した横井宏氏に会うことが出来た。氏はブライアン・イーノを評価しており、僕が当時よく聴いていたダニエル・ラノアとの共通点を話し合った。
横井さんは2年後に亡くなり、「St.GIGA 編成総論 夢の潮流」という講談社から出された衛星ラジオ放送の企画書が残された。
出勤のクルマでバラカン・モーニングの続きを聴く。10時を過ぎアイランドミュージックになり、会社に着いたときの曲は「サマー・ガール」だった。
麻生哲朗さん「ブレーン」のエッセイ、毎号読んでました。もう一編、お願いします。
3413 | 2013.06.05 | ラジオはONのまま眠る。 |
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