ぼくのきおく
朝、散歩するようにしている。
(その時間をつかって二度寝することもあるが、
そういうときはすごく後悔する。
海外で時差ボケに負けて、部屋で寝てたような気分になる。)
同じ道でも、毎朝少しずつなにかがかわっていて、
それに気づくと心が洗われる。
霜柱を見つけたり、ウグイスがかくれていたり。
近くの公園に行くと、桜の木がある。
今朝はちょうど朝日を浴びて
上の方がピンク色に染まり、
春を想ってハッとした。
(こんな日に限ってめずらしくカメラを持ってなくて
写真は撮れなかった。
だから書こうと思った。)
まだまだ開花までは月日があるが、
もう桜は咲く気満々だ。
はりつめている。
「冬」の語源は「殖(ふ)ゆ」、
「春」は「(芽が)張る」だと聞いたことがあるが、
いわゆる“冬枯れ”なんかとは程遠い、
みなぎる気が、秋に葉が落ちたときからすでにある。
毎日のように見ているとよくわかる。
ビリビリふるえるようなシルエットで
枝と芽が空をガリガリ掻いていて、
開花まであと3ヵ月近くあるのが信じられない。
もう咲いているのも同然だと感じる。
桜は一瞬で散ってしまうなんて言うけれど、
じつは一年中咲いているんじゃないか、
なんて言いすぎだろうか。
でも、一年中咲こうとしてる、とは言えるにちがいない。
この木がある場所を目標に歩いているが、
毎朝「見に行く」というよりも
「会いに行く」気分になっている。
手袋をはずして、
そっとふれて、折り返す。
(人が見ていないときに限る。)
正月には毎年書き初めをしているが、
3年前と2年前は連続で
「花」という言葉にした。
言葉はそのときの気持ちで決めている。
(去年は書かなかった。
書けばよかったと後悔した。)
今年は「道」とか「進」とか
(自分の名前にもあるシンニョウが好きだ)
「歩」とかも書いてみたが、
結局、部屋に貼るのは「花」にした。
自分のなかにも、「花」を渇望しているのかもしれない。
あの木のように、ちゃんと空を見て、
ぼくはもがけているだろうか。
朝は犬をつれている人も多い。
不思議なのは用を足した後、
犬がアスファルトの舗道を足でカリカリかいていること。
土もないのに、かけてるように見える。
大昔、人間と暮らしていなかった頃に、
自分の気配を敵から消すために
土をかけていたことの名残りだと聞いたことがあるが、
知るはずもない土の記憶を
アスファルトの上によみがえらせている仕草を
いつもほんとに不思議に思う。
そして、よその犬でもなんだか抱きしめたいような
むずがゆいような気持になる。
(かわいいから、とかじゃなくなぜか衝動的に。)
経験したことないけど、「わかる!」って感じが、
いろんな生き物の中に、
昔見たアニメのように、本のように、
共通言語として、生まれたときから
贈られているのかもしれない。
それはもともとは、生まれる前の誰かの経験。
桜のきおくはきっと犬にもあり、
犬のきおくをおそらくぼくも持つ。
共通の衝動を胸にして、
ガリガリと、カリカリと、
春を待ちつつ今日ももがく。
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きのう、書いていて「(笑)」を
連発しがちな自分に気がついた(笑)。
封印してみたら、今日は少しまじめになってしまったかもしれない。
道山智之