リレーコラムについて

CD不要論

中澤昌樹

さて、リレーコラムも今日で4日目なのですが、
ここまで特に目立った反応もないので、
そろそろドキッとするタイトルを付けて、
軽めの毒でも吐いて注目を集めるぞー!

というわけで突然のギアチェンジですが、

広告クリエーティブの世界で
毎日当たり前のように行われている「慣習」に、
実はこのところ少し疑問を抱いていたりします。

それは
「みんなで企画を持ち寄って、CDがジャッジする」
というもの。

いや、もちろん、
誰かがジャッジしなければ仕事は前に進まないし、
逆に言えばその責任を負えるだけの
実績と経験と技術のある人が
CDという仕事を任されるのだと思うのですが、
どんなに優秀なCDだって、一人の人間です。
全てのジャッジから、
好みというフィルターを排除することは不可能です。

たとえば、CDがあるタレントを嫌いだったとしたら、
その人が世の中的には人気があったとしても、
企画の段階で落とされるか、
もしくは代えられる可能性が高いですよね。

逆にもし私がCDだったら、
こじるりを起用した企画は全部通ってしまいますよね。
こじるりが草野球のグラウンドで
さや姉と将棋を指す企画だったら100点ですよね。

つまり、広告クリエーティブの世界というのは、
それが何億、何十億というビジネスに
繋がっているにもかかわらず、
実際の現場ではきわめて人間的な感覚で企画が選ばれ、
それがプレゼンにかけられているということなのです。

と、そんなことを言い出したら、
クライアントさんだってそうじゃないか。
途中までは採点表とか調査データとかで
企画を決めようとするけど、
最終的には社長(もしくはその家族)の
好きなタレント案で決まったりするじゃないか。

確かにそうです。でもそれは仕方ないんです。
クライアントさんだから。
お金を出す人にはその権利があるのです。
問題なのは、できるだけ論理的かつ科学的であるべき
クリエーティブの現場が、
実は個人の感覚に委ねられていて、
それが正しいとか間違っていたとかいう検証のないまま、
常に作業が進んでいくということなんです。

それは同時に、無限の可能性を秘めたアイデアの多くが、
そのCDのストライクゾーンではなかったという理由だけで
毎日、闇に葬り去られている(可能性がある)、
ということも意味します。
これ、経済的損失で言えばたぶんすごいことになります。
さらに悪いことには、
プランナーが限られた時間の中で企画を通すために、
CDの好みに対して「当てにいく」ということすら、
あちこちの現場で当然のように行われるようになります。
こうなってくると、もう何のためのCDか分かりません。

というわけで冒頭の過激なタイトルに
繋がってくるわけですが、
じゃあ、どうしたらええねんと言われると、
何の代案もないのですみません怒らないでください。
しかも、多数決で決めるよりは
誰かが責任を持って決めたほうがいいに決まっています。
科学的でないからこそ広告は面白いんだと言われたら、
すみませんおっしゃる通りです。

ただ、広告クリエーティブという作業は、
常にそういう曖昧さと危うさを抱えながら
進んでいるものなんだということを、
CDと現場の人のそれぞれが
心のどこかで意識しておくことは、
そんなに悪いことじゃないかなとも思うのです。

そして、ある時たまたまボツになった企画は、
それが絶対的に良くなかったから
ボツになったのではなく、
ある時たまたまボツになったに過ぎないのだ、
ということも。

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