レッテルをはがそうとすることについて
ここ1年くらいで、ひっそりとCDを名乗りはじめました。
クリエーティブディレクターという呼称は、
実はけっこう曖昧な代物で、会社であれば「職制」として、
ある年齢、職位を得た場合に名乗る事を許され(あるいは強制的に昇格する場合も)
名刺に記載されます。
プロジェクトチーム内であれば、
クリエーティブに関わる全体の責任者、という定義になると思います。
以前は、プロジェクトリーダーをやる場合も、会社的にはCD職階ではないので、
スタッフリストのCD欄に、
まったく仕事に関わってない直属の上司を表記したりしていました。
実はこういったケースは多いのです。
もちろん、僕にとってCDという職制が「偉大で崇高なもの」、
というイメージがあったことも、その一因です。
キャンペーンのあらゆるトーン、クオリティを統括し、
短期的、長期的にクライアントとガッチリ組んで戦略を立案し、実行し、
その過程でチームのメンバーの全員の能力を最大現に引き出し、明るい方向へ導く事ができる。
まあ、まさに超人的な能力を持ってないと、CDを名乗るなんておこがましいのではないか、と
考えていたのです。
しかし、そうも言ってられないな、と思う出来事がありました。
東京に戻ってきて、いくつかの仕事を終えて、
ふと僕に対するとある方からの評価を人づてに聞いたとき、
「ああ、彼はつくるものはいいけど、トラディショナルだよね」
と言っていたのだそうです。
「トラディショナル…?」
そう、時はデジタル、ノーライン、グローバル全盛。
東京では「四マス媒体ではもう稼げない」と各広告会社が右往左往し、
デジタルシフト、グローバルシフトの真っ只中。
僕の代表作と呼ばれているものはすべてCM。あるいはグラフィック。
CMもグラフィックも四マス媒体。
だから、彼は「トラディショナル」である、と。
少なくともそこには、「旧来の人」「新領域ではない人」
という意味も込められていたはずです。
その瞬間は、
血が沸騰しそうなくらい腹が立ったことを覚えています。
自分が今まで必死にかたちにして大事にしてきたものを、
そう呼ぶのか、と。
「勝手に決めつけてんじゃねーよ。コピーライターのアイディアは、
マスだの非マスだのそんなものにとらわれたりしねーよ」
哲学者バートランド・ラッセルは、
「我々にとって最悪なのは,あらゆる人間を分類して、
明瞭なレッテル(ラベル)を貼ることである。
この不幸な習性の持主は,自分が相手に適切だと思うタグ(札)を貼りつける時に、
その相手について(タグをはりつけるに足る)完全な知識をもっていると考える」
と述べています。
とかく人は他人に対して、レッテルを貼りたがります。
なにせ時間が無く、みんな忙しいのです。いちいち共通体験なんかしていられないから、
目に見えるわかりやすい情報で、どんどん物事も人物も判断していくしかありません。
他人を決めつけること(もちろんそこには良い面も含まれますが)は、非常に効率的であり、
予測可能な相手を増やす事は、決めつけた人間に精神的安定をもたらします。
そして、大勢が周知するレッテルをはがすのは、相当な労力を要する行為です。
しばらくたって冷静にこう思いました。
今の自分が、いくら「デジタルできます、統合キャンペーンつくれます」と言っても、
誰も信用してくれないだろうな、と。
レッテルをはがそう、と強く決意したわけです。
それは、時流に乗りたいわけではなく、
今までコピーライターが研ぎすましてきた言葉の力や、
アイディアや価値を発見する能力は、「マス、非マス」というガワに
とらわれるものではない、と信じているからです。
ほうっておけば、CMプランナーの仕事しか来なくなる。
CDを名乗り、プロジェクトを統括する立場になることで、
のぞむ仕事を引き寄せ、自分の世界をひろげてみようと。
サッカーでいうところの「つっかける」状態で、
CDとしての能力が追いついてるかどうかを気にしてる時間がもったいない、
とにかくやってみようと思ったのです。
それから、とにかく「デジタル、グローバル、統合キャンペーン」を
呪文のように唱えながら、書籍を読み漁り、その道のプロに教えを請い、
単純なCMのオリエンを何度もキャンペーン提案に変えたり、
デジタル仕事を探して営業してまわったり、
グローバルのためにベトナムまで仕事の交渉に単独で出かけたり、
泣きながら英語の勉強をしたり、激しく動いています。
まだ抜けきってはいないものの、
いくつかかたちになったものもあり、続けていこうと思います。
もちろん、コピーライター・CMプランナーとしての仕事も、
疎かにせず取り組んでいます。
本来は、進むべき仕事のありようを他人の圧によって気づかされるのは
愚かであり、言われずとも動ける、
大局観のようなものを身につけないとな…、
とも考えています。
今現在もつくり手たちは、大きな揺らぎのなかにいて、
「デジタルじゃないと生き残れない」
「360度だ」
「BUZZこそすべて」
「TVはいずれ無くなる」
「いや、揺り戻しは必ずくる。TVこそが最強だ」
「コピーライターやCMプランナーのスキルは、このままでは継承されず、
いずれ希少価値になる、むしろそこがチャンス」
「新しいメディアで新しい表現をつくればいいんだ」
「日本市場は枯渇し、ドメスティック制作者の大淘汰がはじまる」
など諸説飛び交っていますが、結局大事なのは、
「やれるか、やれないか」ではなく、
「やりたいか、やりたくないか」ではないでしょうか。
僕が新卒で勤めた会社で、先輩に辞める相談をしたときに言われたこと。
「仕事は毎日のことだから、仕事が楽しくないと、人生は楽しくなくなる」
そしてつけ加えて、
「ほとんどの場合において、自分の評価や向き不向きは他人によって
勝手にくだされる。それを撥ねのけるのは容易でない」と。
デジタル、グローバル、統合キャンペーン。
難しい。時間も労力もかかる。しかし、やりたいし、やってみると楽しい。
これをやったから、コピーや企画の能力が疎かになるかというと、
そんなことはないと思う。
そして、遠くない将来、
これらも「トラディショナル」になるのです。歴史の必然です。
その頃、自分はどこを走れているのか。
オーケー、大丈夫。レッテルなんて、貼られたそばからはがしてやろう。
鶴瓶師匠のガムテープはがし芸のように、景気よくビリッと。
どんな社会、メディア環境にあっても、自ら前に進む限り、
僕たちコピーライターは人の心を動かすものをつくりだせるはずだから。
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