「私を入れるような会には入りたくない」
タイトルは、アメリカの偉大なコメディアン、グルーチョ・マルクスの言葉です。
ウディ・アレンの映画『アニー・ホール』の冒頭にはグルーチョの「私を入れるような会には入りたくない」
(”I would never wanna belong to any club that would have someone like me for a member.”)
が引用されていますが、つまり自分の様なコメディアンを入れたがるような会はダメだ!と断じているのです。
偏屈かつユーモアあふれる言葉ですが、
「会」というもののひとつのあるべき姿と、独自性をよく象徴していると思います。
とかく、人は群れたがります。
政治家やサラリーマンは派閥をつくり、
お父さん達は馴染みの飲み屋に、OLさんたちは給湯室に、子どもたちは塾帰りの公園に集います。
SNSには、趣味から政治信条まで、仲間を求める声が溢れています。
これはもう太古の昔からDNAにインプットされた生存本能なのでしかたありません。
どれだけ自分の孤独を主張する人も、
ソサエティと一切無縁の生活を送れる人はいないでしょう。
アリストテレスも「人は社会性の生き物である」と言ってます。間違いない話です。
で、僕のDNAが叫ぶわけです。
お前は才能なく、至りもせず、脆弱な存在なのだから、
いろんな人に出会って教えを請いなさい、仲間を増やせと。
多少、DNAに反論してやりたい気持ちを抑えつつ、そんなに頻繁でないにせよ、
多種多彩な会を行っています。
そこで、いま主催および参加している会を列挙してみました。
『26の会』・・・「ふろの会」と読みます。不定期の26日に、「風呂」に入って一杯飲んで、
「二郎(ラーメン)」を食べる後輩たちとやっている会です。
都内各地の銭湯と、その近辺の二郎をセットでまわります。
所要時間3時間、予算3000円くらいで終わるわりに満足度の高い会です。
『川向こうの会』・・・荒川以東に住む人々で構成された会です。
広告業界はやたら西のミーハーな地域に住む人が多いので(失礼)、
それへのルサンチマンとアンチテーゼが充満しています。
『芝美酒会』・・・正式名称「芝居を観て美味しいお酒を飲む会」。
この会がいちばん活動頻度が多いかもしれません。
月イチは集まっていると思います。
会社もバラバラ、年齢もバラバラのそうそうたる業界の偉人たちが芝居を観て
感想をあーだこーだ語りながら飲んでいます。
『スラムボーイズ』・・・最高新人賞と小田切賞とカンヌグランプリ受賞者、
そして僕の4人によって構成される会です。
僕以外はみな業界でグイグイ来てるやつらですが、
かつての「鳴かず飛ばずのスラムのような日々」を心に刻印し、
風化させないために、このネーミングで年末に開催されています。
『バイト仲間』・・・某クライアントのプロジェクトに取り組んだ仲間たちで定期的に飲んでいます。
このプロジェクト中にモスクワで海外ロケがあり、
同時期に審査員の用事があった関係でチームでいちばん遅れて合流したところ、
「次長」というあだ名がついてしまいました。ここでは今もそう呼ばれています。
『浅青会』・・・ 「浅草青年会」の略です。浅草、および浅草橋近辺の、
最近アツいと言われているEast tokyoのディープなお店を巡る会です。
偉い人からペーペーまで隅田川のほとりに集っています。風情のある会です。
『つくるひとの会(仮)』・・・ある日、「自分と全然違う世界のつくり手たちの話を聞いてみたい」と
思いたち、勢いではじめた会です。
作家、漫画家、劇作家、映画監督、俳優、編集者、音楽家の方々などを
お招きしして、ほぼ全員初対面の状態で近所のどこかにありそうな、
演劇やってるにーちゃんとか、
徹夜明けの漫画家とか、チャラい広告マンとかが集まる居酒屋のような
雰囲気でまったりと飲んでいます。
大事にしているのは「共通言語」です。
「何かをつくっている人」は、それが互いに一見まるで関係性のないもので
あっても、物事を突き詰め、生み出し、昇華していく過程で共通言語をもつ、
という仮説のもとに年に数回開催しており、
その仮説は、正しかったと実施のたびに実感しています。
ちょうど今週末、直木賞、芥川賞候補の作家さんを特別ゲストに迎えて、
行われる予定です。
と、こんな感じです。
会として名前をつけているかどうかはさておき、
みなさんもこのような気の置けない仲間たちとの、
集まりの一つや二つお持ちなのではないでしょうか。
同好の士とはよく言ったもので、一般的で爽やかな会から、ここでは書けないような、
マニアックでアブノーマルでエロティックな会も存在するでしょう。いや、知りませんよ、たぶん。
ともあれ、共通言語を持つ仲間とのひとときは、生きていくうえでの大きな喜びであると思います。
「幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ」と、
吉本ばななさんは、「『キッチン』で述べています。
そもそも人間はひとりで生き、ひとりで死んでいく。これまた真理です。
では、ひとり、とはどういうことなのでしょうか。
物理的、空間的に孤独である、ということでないとすると、
僕はこう定義してみました。「この道の先で、もう誰かに会う事がないこと」。
そして、ひとりではないことをこう定義します。「あなたがそこにいると信じられること」。
谷川俊太郎さんの詩に「ほんとうに出会ったものに、別れはこない」という一節があります。
そこに、そばに、その人がいることが必ずしも重要ではない。
その人の存在を信じられること、そのことで前に進む勇気のようなものが湧いてくること。
ならば、その人はひとりではないのかもしれません。
僕の人生は定期的にけっこうな危機が訪れていますが、
要所要所でそういった「人生にカットインして助けてくれる人」
に出会ってきたのも事実。
演劇でいうところのデウス・エクス・マキナというやつですね。
こういった「誰か」は、
みなさんの人生にもきっと存在するのではないでしょうか。
きっとそういった人にはいやおうなしに出会ってしまう、とも言えると思います。
これからどれだけ、「ほんとうに出会える」のか。
二度と戻らない、その日その時の邂逅を大事にしつつ、ダラダラ飲んだくれていこうと思います
(あ、アルコールがなくても大丈夫です)。
・・・あれ、何か自分がずっと入っている「大事な会」を、書き忘れているような気がする。
なんだっけ。
・・・あ、TCCだ。
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