リレーコラムについて

祖父の選択

伊藤みゆき

母方の祖父は大工でした。

そしてその職業のイメージに漏れず
おそろしく頑固で不器用な人だったそうです。

わたしが7歳のときに亡くなっているので
覚えているのは入院中の痩せた顔と、遺影の顔くらい。

そんなおぼろげなイメージの祖父のことを
ずいぶんおとなになってから、母にきいてみたことがあります。

「あんたが生まれるとき、おじいちゃん大変だったんだから」

生まれつき体の弱かった母は、
わたしがお腹にいるとき、重度の妊娠中毒症を患っていたそうです。
予定日より1ヶ月以上早い緊急帝王切開。
万が一に備えて、大きい病院への搬送手配をして
小児科や麻酔の先生もスタンバイ。
田舎の病院にしてはなかなか大騒ぎなことになっていたと。
(30年くらい前の話なので、いまこれが“大騒ぎ”なのかは謎ですが)

そして産科の先生は、母の父である祖父を呼んで、こう尋ねたそうです。

「万全は尽くすが、成功率が100パーセントとは言い切れない。
 もしものとき、お母さんと赤ちゃん、どちらを優先しますか」

えーーー、って。
まじかーーー、って。

伝聞のわたしでさえこう思うのだから、
その選択を突きつけられた祖父の思いたるや。

わたし「え、それでじいちゃん、なんて答えたの」

母  「それがね…」

「どっちも助けないでください」

そう言ったらしいんです。うちのじいちゃんは。

えーーー、って。
まじかーーー、って。

伝聞のわたしでさえこう思うのだから、
その答えを投げかけられた医者の思いたるや。

祖父曰く。

母親だけ助かったら、子どもを守れなかったことを
ずっとずっと後悔するだろう。

子どもだけ助かったら、母親がいないことを
いつか悲しむ日がくるかもしれない。

だから、だったら、もろとも!!って。

えーーーーーー。

結局、わたしは無事にうまれて、母もなんとか持ち直し。
祖父の選択が現実になることはありませんでした。

でもこの話をきいたとき、
わたしの中でおぼろげだった祖父の記憶が
すこしずつクリアーになってきたのです。

祖父のザラザラごつごつした指とか。

缶コーヒーと煙草のにおいが嫌だったこととか。

天井の高い仕事場に響くのこぎりの音とか。

祖父の一言には、
それだけの含有量というか埋蔵量というか、
彼の人となりをぎゅっと凝縮して
奥にしまわれた記憶を引っぱりだすだけの力がありました。

子どももいない、結婚すらしていないわたしにも
こんな祖父の血が流れているわけで。

人生に大事な選択のときがちょっとだけ思いやられたりもします。

========

押部さんからバトンを受け取りました、
コピーライターの伊藤と申します。

せっかくなので、記憶に残っていることばの話を書いてみました。

ちなみに2000グラムちょいで生まれたわたしは
その後すくすくと成長し、小学生のうちに身長160cmに到達。
「ちいさく産んで、おおきく育てる」は
母の座右の銘となったのでした。
(なんかクルマのキャッチフレーズみたいですね)

1週間よろしくおねがいします。

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