あっちの人 ④
「おはよ。東亜に行かない?」
と毎朝、近くの喫茶店に誘われる。
全日空のパンフレットのコピーを
チェックしてもらわないと……午後には入稿だ。
気が気ではないが、断るなんて勇気はない。
書いた原稿用紙を抱えて後ろについていく。
「え~と、最初の見開きは、これで」「…………」
「次の3~4ページは、これで!」「…………」
「最後の5~6ページのは、これです!」
と、8ページパンフに3本の見開きコピー、
師のOKをもらうために、
各ページに40~50本のコピ-案を用意する。
原稿用紙の束をめくり終えて、
「ン~む……、これはいいけど、
あとはもう少し考えたら」と不機嫌そうに言う。
『コピーライター 眞木準』
2009年、享年60歳という若さで急逝してしまった。
「あ、はい」……タラリ(冷や汗)
「午後には入稿なんです」などという泣き言は
死んでも言えない。
そんなこと聞いてくれるわけもない。
OKはたった1本だけ。トホホ……
あと2本、どうする?! タラタラ(冷や汗)
営業とデザイナーを呼んで、
「校正までにはOKをもらうから、
今日のところはこれ1本! で入稿を」
と、借金取りに期限を待ってもらうような、
そんな心境でお願いする。
コピーのコの字も知らずに博報堂に入社し、
2年目にいきなりスーパーコピーライターの下に
再配属された。TCC最高新人賞、
翌年にはTCCクラブ賞、と連続最高賞を受賞。
もはや博報堂を代表するというより、
日本を代表するコピーライターの一人だった。
当時、全日空とキヤノンを担当するチームに、
コピーライターは私と眞木さんの二人だけ。
下っ端の私は、カタログからチラシの果てまで担当し、
すべて眞木チェックを受けなければならなかった。
次年度の沖縄キャンペーンのコピーを考えるため
眞木さんは、帝国ホテルに1週間カンヅメになる。
「柴田くんも考えてね」と言い残して……。
「お、俺も、ですか?!」
とにかく、いっぱい書いてホテルへ持っていく。
「…………」
何の反応もない。眞木さんも苦悩している。
金曜日の朝、さらにドサっと持って行く。
「…………」
で、一枚の原稿用紙に、手書きのコピー
(眞木さんは達筆だった)
「これ、どうかな?」
『トースト娘ができあがる。』
アタマをカチ割られたような衝撃を、
いまでも忘れない。いったい、
どこから、こんなコピーが出てくるんだろう。
眞木準コピーのイチバン最初の読者という
僥倖に恵まれたことが、
私のコピーライター人生、最大の幸福だった。
私が眞木さんに勝てたのは、
酒の強さぐらいのものだった。