同語反復
さて、このコラムの今週のテーマは、「食べ物の本」についてです。
僕は、最近まで、宣伝会議で「クリエイティブディレクション講座・シズル専門コース」というの講師をやっていました。コピーライティングの中でも、特に「食べ物のことを旨そうに書く」、そのことに特化した講座だった。東北新社(現・オンド)のCMディレクター、中野達仁さんと、フードコーディネーターの森沢のり子さんと組んで、僕がコピーの話、中野さんが映像の話、森沢さんが被写体のセッティングの話、という組み合わせで、僕のパートは赤子でもわかるようなコピーの話を偉そうにやっていた。自分で言うのも何だが、受講者の満足度は結構高かったと聞いています。(オンラインになって、情報セキュリティが心配になって辞めた)今はもうやってないから、読者がご覧になって、「こんなつまんねーこと言ってたのか」と呆れられる心配はありません。
そこでしゃべっていたことは、基本、僕が数百冊の食べ物の本を読んで、自分で考えたことでした。同じジャンルの本を何百冊も読むと、さすがに私のような非才でも、「いい、悪い」はわかるようになってきます。これはコピーでも同じことだと思う。
食べ物の本の、「いい、悪い」の見分け方。「オレはどこそこに行って、何とかという店で、何々を食った。すげーうまかった。」みたいなことが延々と書いてある本は、読むに値しない。「ああ、それはよかったですね」と思うだけで、自慢されてもうらやましくもならないし、次に食べに行く時のガイドにしようとも思わない。
いい本というのは、「何々がうまい、うまかった」ということが書いてある本ではない。「ものがうまいとは何なのか、どういうことなのか」が書いてある本です。もちろん、そういう本にも、基本は「どこの何がうまい」というような事実しか書いていない。でも、読んでいくうちに、「ああ、そうか、ものがうまいってこういうことなのか」と目を開かされるような本がある。人間がものを食べてうまいと感じるのはなぜなのか」「どういう現象なのか」がおぼろげながら見えてくる。こういう本は読みごたえがありますねえ。
たとえば、吉田健一「私の食物誌」「舌鼓ところどころ」他数冊。吉田健一は、吉田茂首相の長男で、本業は小説家・文芸批評家・翻訳家だが、食べ物のことを書いたエッセイがたくさんあり、非常に面白い。
この人には、数多くの食べ物の本があるが、その中で書いているのは、基本的にはたったひとつのことしかありません。「豚は豚の味がする。」ただこれだけである。「鮪は鮪の味がする」「牡蠣は牡蠣の味がする」これしか書いていない。たったこれだけのことを、技術を尽くし、秘術を駆使して絢爛に書くものだから、読むと「ああ、うまそうだなあ」「食べたいなあ」とすごく刺激される。しかし、読後に冷静になってよーく考えてみると、実は、「豚は豚の味がする」としか言ってない。他には何も言ってない。つまり、同語反復なのです。全篇それなのだ。それだけの本を何冊も書いているのです。すごいでしょう。
そこで気がつく。要するにこの人は、「豚の味は、唯一無二のものであって、『豚の味』としか表現のしようがないものなのだ」ということが言いたいのだ。
他にどんなに言葉を飾ろうが、どんな単語で喩えようが、満足に言い尽くすことはできない。豚のあの複雑な味、獣くさい香り、噛み応え、それらの入り混じった感覚…。それを言葉にはできっこない。言葉はそれほど、人の感覚に比べると単純で粗雑で非力なのだ。言葉で言うとしたら、「豚の味」としかいいようがないもの。それが豚なのだ。ウソだと思ったら、試しに、「豚の味」を、言葉で表現してみてごらんなさい。それを、ブラインドで、正体を言わずに「これ何の味のことを言ってると思います?」と聞いてみてごらんなさい。たいていは、当たらないから。
味覚は感覚だ。視覚・嗅覚・聴覚・触覚と並んで、具体的な人の感じるある刺激だ。感覚なしには、人は生きていることができない。きわめて微妙で繊細な、ただ心地良かったり不快だったりする何かだ。それが何か、ということは決して人にはできない。ただ、この世に、確実に「存在する」と言えるものがあるとしたら、その一つは間違いなく「感覚」だ。
それに対して、言葉は記号だ。記号という、全く無味無臭の、手触りも外見もない、ただの符牒にすぎない。存在といえるのかどうかすら怪しい。私たちが「豚」と聞いてうまそうに感じるのは、過去に「豚」という体験が、記憶が、リマインドがあるからに過ぎない。「豚」というたしかな実在と結び付けられているからに他ならない。それなしでは、言葉は、何一つなすことができない。言葉を舐めても味はしない。言葉をかいでも香りはしない。「納豆」という言葉に触っても、ぬるぬるとはしていない。それは記号と、それに結び付く記憶と再現があるだけなのだ。ごく当たり前の、誰でも知っている話ではありますが。
このようなことを、僕は「クリエイティブディレクション講座・シズル専門コース」で何年も伝え続けた。テレビ画面をなめても味はしない。匂いの出てくるネットはまだない(今は)。それはただの記憶にすぎないのだ。「うまそうに書く」とは、「記憶を掘り出す」ということだ。このようなことを、僕は吉田健一の本から教わった。
それは僕のコピーに対する、最も基本的なスタンスでもある。
どうです。つまらないでしょう。