リレーコラムについて

形のない絵本

麻生哲朗

絵本を描いている。

頭の中でずっと。

大学時代の終わり頃に着想を得たその主人公や筋書きは、

もう30年近く形にならないまま、頭の中にある。

主人公は変わらないが、その名前、他の登場人物、動く世界、

さまざまなものが消され、加えられ、上書きされながら、未だ形にならない。

 

形にならない理由は二つある。

一つは、頭の中で思い描いたシーンが、

自分の指先を通すとおよそその造形にならず、

どこかイメージとずれるという自分の画力の低さとその停滞。

もう一つは、増殖に増殖を重ねた挙句、

どこから描き始めればよいかわからなくなっている、一向に収束しない世界観。

その制作に傾ける物理的な時間、というのを加えて

理由は三つと言いたい気持ちもあるが、

時間を言い訳にしないことは広告の世界で嫌というほど鍛えられてきているから

今更理由にはできない。

 

一方で、形にならない絵本が自分の中にずっとあることは

広告への意欲が失われない一つの因子である気もしている。

 

広告は、自分の作りたいものを作るわけではない。

少なくとも僕は。

強いて言えば、作るべきでないものは作らないようにしている。

その方が自由だ。

広告との出会いはいつだって唐突で、意外で、

思いもしなかったことを考えることが結果、何か必然を伴った表現になる。

だから広告は面白い。

 

それらの突発的な創作を受け止める状態が、

この無形の絵本のおかげで準備されている。

いつか作りたい、まだ作れていないものを抱えていることが、

ある種、創作の暖機運転になっていて、

そこに広告が放り込まれてきた時、なんらかのスパークが生じている。

そんな感覚がある。

 

ただ、それを繰り返せば繰り返すほど、

その絵本はますます新たな着想を得て、頭の中でさらに形を変えていくから

また形にならなくなる。

 

いつか描くだろう。

描かないと死ねない。

でも広告が点火される限りはまとまりそうにないから

もし広告を作り続けるのだとしたら

死なないと描かないのかもしれない。

 

つまり広告は、きちんと受け止めればやっぱり面白い。

自分が作りたいものよりも優先し続けてしまうくらいに。

それが逆転された時に、絵本は完成するのだとしたら

まだしばらくは、

この絵本は形にならないままでいいのかもしれない。

 

スケッチブックだけはカバンに常に入れながら

僕は今日も、広告を考えるだろう。

その不安定さが心地よいと、きっとどこかで感じているのだろう。

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