リレーコラムについて

父の背中4

鈴木智也

「…最後に俺、トンカツが食いてえな」

父がすい臓がんを患い、抗がん剤治療が始まる直前の日だった。

 

抗がん剤の副作用で、これから長く苦しむことになるかもしれない。

ボクたちは、治療が始まる前に父を食事に誘った。

味覚が変わってしまうこともある、と本で読んでいた。

そうなる前に、好きなものを好きなだけ食べて欲しかった。

 

「何か食べたいもの、ある?」

電話に出た父から

「…最後に俺、トンカツが食いてえな」

と覇気のない声が返ってきた。父の大好物だった。

 

父が贔屓にしている地元のトンカツ店を、家族みなで訪れる。

店長がわざわざ店から出てきて、挨拶してくれた。

「いつもありがとうございます」

「悪いね、突然連絡しちゃってね。

また太っちゃうなあ、困ったなあ」

体調不良を悟られまいと、父は必死に軽口を叩いた。

この店に来るのも、もうこれが最後かもしれない。

そんな不安は、微塵も感じさせない。

 

若い店長からみなぎる、溌剌とした活力と、

ゆっくりした弱々しい父の足どり。

そのコントラストが残酷に見えて、胸が苦しくなる。

 

いつもなら外の見える静かな個室が予約できるのに

その日はもう満席で、ボクらはいちばん隅っこの座席に通された。

…こんな日に限って。

父の境遇と重なって、なんだか不憫に思えた。

 

揚げたてのトンカツが運ばれてくる。

父はひときれ、ひときれ、ゆっくり味わって食べた。

そして笑顔を浮かべて、「旨いな」とだけ言った。

 

すい臓にとって揚げ物なんか、負担にならないはずがない。

きっと明日からはまた苦しむだろう。

でもこの際、明日のことなんてどうだってよかった。

父がこの瞬間に幸せなら、それでいい。

いまこの場所で、笑って欲しかったのだ。

 

トンカツを完食した父が、テーブルの隅の何かに気づいた。

小さな紙に手を伸ばす。

 

それは、トンカツ店のアンケート用紙だった。

 

「最後かもしれないし、これ書こうか、お母さん」

「そうだねえ、書いてみようか」

 

そのアンケートには、接客や味、提供時間に関する満足度を記入する欄があり、

さらにその下には、

“ご自由にご記入ください” という自由欄があった。

父はきっと、お礼を書きたかったのだろう。

 

「これね、いいコメントだと、割引券が当たるのよ」

母がそう教えてくれた。

優秀なコメントは選抜されて、お店の広報誌に掲載されるとともに

後日使える、500円の割引券が貰えるのだという。

 

父の顔色がすこし明るくなる。何かを決心していた。

「よし、俺は割引券を当てるぞ」

 

その父の宣言は、“またこの店に来たい”、という願望に聞こえた。

“まだ生きたい”、という切な願いのようだった。

アンケート用紙の中の小さなプレゼント企画が、

誰かの生きる糧になることだってあるのだ。

 

その気持ちに、ボクも応えたかった。

「ボクも書くよ。言葉を使うプロとして書く」

鉛筆をぎゅっと握りしめた。

TCC新人賞をもらった日のことを思い出す。

ここでスキルを発揮しないでどうする。腕が鳴った。

 

会社に入って12年が経つ。

父は、ボクがどんな仕事をしているのかさえ、よく知らない。

でも、名のあるクライアントの仕事だって、近頃は任されている。

そしてここまでやってこれたのは、父と母のバックアップがあったからだ。

 

もし割引券が貰えたら、必ず父をもう一度ここに連れてくるのだ。

 

どんな大きな競合プレよりも、何百億の扱いよりも、

この500円を大事にしたかった。

 

母も、妻も、こどもたちも、

一人一枚、アンケート用紙をとって、推敲を始めた。

みんなで父の再訪を、お膳立てするのだ。

 

満席のトンカツ屋の中で、

アンケートに全力で趣向を凝らしているのは、このテーブルだけだ。

これが家族なんだなあと思った。

こども達は、丁寧に絵まで描いている。

それを見守る父の背中は、

笑い出しそうなのか、泣き出しそうなのか、かすかに揺れている。

 

ボクはアンケートの自由欄にこう書いてみた。

こういう時はひねり過ぎず、わかりやすい企画が通るものだ。

 

『A-8番テーブルに座った鈴木と申します。

本日は大変美味しく頂きました。ありがとうございます。

申し訳ありませんが、落し物をしてしまい、

店内で紛失してしまいました。

もし見つかりましたら、上記の携帯番号まで

ご連絡いただけますでしょうか。

ほっぺたというものです。 』

 

 

後日、ポストに一枚の割引券が届いた。

ボクは、この割引券で、もう一度トンカツを食べる父を、想像する。

その背中は、やっぱりかすかに揺れているように見えた。

 

(つづく)

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