リレーコラムについて

①コピーライターになる前のこと

鈴木勝

ご無沙汰しています。1997年入会の鈴木勝です。

リレーコラムは何度か逃げおおせていたのですが、

電通デジタルのコピーラボでお世話になった滝村泰史さんからの紹介と、

今年で54歳になるので、そろそろ、お世話になった人たちへの感謝と

ご挨拶をしておきたいと思い、書かせていただくことになりました。

一週間おつきあい、よろしくお願いします。

 

わたしは岩手県出身で実家は釜石市の外れの限界集落のような漁村にあり、

いちおう古い本家の後継ぎなのですが釜石には住んだことがないので、

帰省しても墓参りと挨拶回り、あとは釣りくらいしかすることがありません。

さいわい徒歩3分の漁港はアブラメ(アイナメ)の釣り場として有名なところ。

でも、震災の津波は実家まであと2メートルくらいのところまで到達しました。

 

わたしの父は婿養子でしたが漁師は継がず、転勤の多い銀行員でした。

東磐井郡千厩町(当時)、宮城県気仙沼市、岩手県久慈市と引っ越して、

わたしは鮎を釣ったり鮭を獲ったりして遊んでいました。「あまちゃん」ののんさん

みたいに「じぇじぇじぇ」とか言って。リアルでは「じぇじぇ」が多かった印象ですが、

キャッチーな3回重ねを持ってきたクドカンのセンスは流石だと思います。

 

高校でようやく憧れの県庁所在地、盛岡市に。映画館もゲームセンターもあって、

すごい都会だと思い感動しました。もう一生盛岡に住みたいと思いました。

でも高2のはじめに家庭が崩壊。楽しい盛岡ライフは儚く消えてしまい、

卒業後は八王子に逃げた父を頼り、奨学金を借りて、都内の大学へ進学。

これが本当の都会だと思い、また感動しました。でも世の中はバブル絶頂期でしたが、

わたしはまったく縁がなくて。大学の学生職員になって学費を稼ぎ、

父のアパートを出て、高円寺、雑司ヶ谷、目黒本町のアパートを転々としました。

そして卒業後は母と妹の暮らしを支えるため相模原市相原に…

 

…ここまで書いてきて、なんというかこう、1990年頃の学生とは思えませんね。

いまふつうに暮らしていることを、若い頃の自分に教えてあげたいと思いました。

そして、コピーライターという職業との出会いが、

それまでとは違う人生の始まりだったのだと、あらためて実感しています。

(②コピーライターになったこと、につづきます)

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