リレーコラムについて

②コピーライターになったこと

鈴木勝

よくコピーライターになれたな!という少年期を送ったわたしですが、

なんとか大学生になり、それまでの経験から根無し草のような人生を予感して、

詩人に憧れるようになっていました。そして3年のとき、詩人の荒川洋治さんの授業で

コピーライターという職業を知り、興味を抱くようになりました。

実はわたしは小学生の頃から図書館通いをして、学級新聞に小説や漫画を書いたりもしていたので、

ものを書く仕事について母や妹を養えるかも、という人生初の希望が見えてきました。

 

早速、リクルートの関連会社で求人広告制作アシスタントのアルバイトをはじめました。

卒業と同時に制作職として採用してもらったのですが、バブル崩壊後の厳しい環境の中、

社名や会社そのものが目まぐるしく変わりました。在籍7年ほどのあいだの勤務地は、

新橋、新横浜、横浜、藤沢、町田、横浜。就職しても、相変わらず流浪の日々が続きました。

 

でも、当時リクルートグループでは、コンテストや勉強会の機会が豊富でした。

渡邉嘉子さんが音頭をとり、多くの有名コピーライターの方を呼んでくれていました。

そこで、大先輩の東秀紀さんや佐倉康彦さん、ドラゴン桜の主人公になった海老原嗣生さん、

同学年の梅澤俊敬さんたちと知り合いました。外部講師は、仲畑貴志さん、鈴木康之さん、

岩崎俊一さんなど、錚々たる方々。みなさん、とてもキラキラしていて眩しかった。

いまもそうですが、当時ぎりぎりの人生を送ってきたわたしにとっては、なおさらです。

その後なかなかお会いする機会がなくても、あの頃の出会いがわたしを前に進めてくれました。

 

仲畑さんのタバコに火をつけたとき滅茶苦茶深くてかっこいい謝辞をいただいたこと。

鈴木さんにボディーコピーを褒めてもらったこと。岩崎さんにきつく叱られたこと。

年を経てからも、外資系でロジカルに針の穴を通すような仕事に慣れたころ佐倉さんが

「そっちだけになっちゃダメだよ」と言ってくれたこと、わたしが「広告賞に出せるような

仕事じゃないんです」と言ったら東さんが「そんなこと言うなよ」と励ましてくれたこと、

広告電通賞をとったら渡邉さんが喜んでくれたこと…

他にもたくさんあってここには書ききれませんが、すべてわたしの宝物です。

 

そして、リクルートのベストクリエイターになり、TCC新人賞をいただいた頃。

父と完全に縁を切り、母が釜石に帰り、妹が結婚して、かなり気が楽になっていました。

わたしも結婚して、息子が産まれました。なんだかいい感じです。

夜空ノムコウが流行っていました。

 

そんなとき、会社の制作部門が解散になりました。

今度はこうきたか、と思いましたね。でも、不測の事態への対応力は身についていました。

それまであまり例のなかった、求人広告系から外資系広告代理店への転職を決意して、

オグルヴィ&メイザー・ジャパン(当時)に転職。クリエーティブのトップを務めていた

栗田廣さんには、いろいろと教えていただきました。その後は電通関西支社TOKYOROOMに移り、

大阪に単身赴任して、帰ってきたら本社に吸収されていて、いまは電通デジタルに出向しています。

もっとも最後の電通デジタルは人気があり、希望が通ったからなのですが、

やっぱり流浪の人生は続いているようです。

 

先日、40年続いた流浪の番組、タモリ倶楽部が終わってしまいましたが、

好きなことをすること、人との出会いを大切にすること、さりげない終わり方をしたこと、

ぜんぶわたしのお手本です。ほんとうに憧れてしまいます。

(③岩崎俊一さんと梅澤俊敬さんのこと、につづきます)

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