アイドルを探せ
続けて昔の話をします。
まだ私が学生でコピーライター養成講座に通っていた頃の話から。
十何回かあるその講座の最初の講師が眞木準さんで、そのときの講評で「このハットリさんという人はセンスがいいからプロになったほうがいいですね」と言われて舞い上がり、
私はそのままこの道に進んでしまったのだった。
ちなみに、その講座で私に「プロになったほうがいいよ」と言ってくれた人がもう一人いて、それが最後の課題の講師だった(中村)禎さん。
後年、禎さんにそのことを伝えたら「そんなこと言ったかなぁ…。おぼえてないなぁ…。え?審査委員長賞?獲ったの?今年の?仲畑さんの?おめでとー。うん言った、言った。言ったと思う。うん。やっぱオレ、見る目あるなー」とおっしゃってました。
禎さんありがとうございます。
で、眞木さんにはその話をしたことがなかった、というか会員になってからも幹事になってからも、眞木さんとは口を聞いたことすら一度もなかった。
自分の中での眞木さんは「眞木さん」というか完全に別世界にいる「眞木準」で、
授賞式とか総会でお見かけしても「お、ラッキー。今日、眞木準見ちゃったよ」とかそんな感じ。
もう完全に心のアイドル。
夜中に会社で「眞木準コピー新発売」の対談ページとか読んで「あぁこういうこと考えて書いてるんだー」と思ってフフフと笑ったりとか。
我ながら気持ち悪いな。
だから(謎)、眞木さんが私のことを知っているだなんて思ってもみないことでした。
「土屋耕一さんを偲ぶ会」でのことだったと思います。エレベーターホールで談笑していた眞木さんが、幹事として受付カウンターにいた私のほうを振り向いて、
「なぁ、そうだろう、ハットリくん?」
と言ったのです。
ものすごくびっくりしましたね。そもそもの質問がなんだったのかも全く把握できないほどに。
で、私は思わず「え、眞木さん、ぼくのこと知ってるんですか?」と聞いたのでした。
そんなマヌケな私を見ながら眞木さんは「当たり前だろう。キミはハットリくんだ。年鑑部のハットリくん。ハットリくんだよ。ハットリくん♫」
と、歌うような節をつけながら会場に入っていったのでした。
感激しましたね。
あの眞木準が、自分のことを知っている!次に会ったら必ず学生時代のエピソードと感謝を伝えようと思いましたよ。
だってあのとき眞木さんにああ言われてなかったら自分はコピーライターになってなかったかもしれないわけで。
(あ、禎さんごめんなさい)
眞木さんにお会いできることになる機会はすぐにやってきました。
その「偲ぶ会」の打ち上げというか関係者のお疲れ会みたいな席に、発起人のお一人として名を連ねていた眞木さんも参加されるということで。
クラブハウスにいつもよりちょっとおしゃれなケータリングを頼んだりして、
「眞木さんの席はどこがいいかなぁ。誰がまず隣に座る?」とか、みんなそわそわしてましたね。
ぼくだけじゃなくみんなにとっても眞木さんは心のアイドルだった。
そしてその日、眞木さんはその会に来ませんでした。
それがその日のことだったのか、数日経って公(おおやけ)になったタイミングだったのかはわかりません。
ただ会が始まる予定だった時間を15分ほど過ぎたあたりで、その場にいたぼくたちは「眞木さんが亡くなられた」と知らされました。
そのあとはあやふやなのですが、とりあえず献杯をしてなんとなく解散したようにおぼえています。
あのとき言えなかった言葉は結局どこへも行けず、6月になると帰ってきます。
「眞木さん、ぼくは、」
いや、まいったな。もうそのあとが続かない。
たしか眞木さんの命日には名前が付いていたんじゃなかったかな。芥川の「河童忌」とか太宰の「桜桃忌」みたいなやつ。
でもなんかこねくりまわしてスマートなやつにしちゃって誰も覚えてない、大ファンだったぼくでも忘れちゃうみたいな。
眞木さんの命日なんだから「マ忌」がよかったのになぁとぼくは思っているのだけれど。
いろいろ縁あって私が新人賞を受賞した時の年鑑のコメントが書かれた眞木さんの直筆原稿を今は私が所有している。
その原稿用紙には「コピーの貴公子」にふさわしいものすごく美しい文字で
「コピーライターは、ジャーナリストでもあるという証明を、服部孝之氏のチャイルド・マザーは示している。プロダクト・アドでも、その才能が開花することを、祈ります。」
と書かれている。
残念ながら私にはその才能がなかったのだろう、結局開花することはなくいまに至る。
ちなみに、この原稿をみて眞木さんの端正な字に憧れて硬筆の練習をしたことがあるのだけれど、残念ながら私のとんでもないヘタ文字が治らなかったのは、眞木さんと糸井(重里)さんが対談で
「ナカハタくんは筆記用具にこだわってあれこれ取り替えるけど、あれは関係ないね。何で書いても常にいいコピーを書く。あと、何で書いても一貫して字がヘタ」
とおっしゃっていたのを読んで「ああ、字はヘタでもいいんだなー」というのが刷り込まれてしまったからだと思っている。(あと、そのせいか仲畑さんの大ファンでもある私は万年筆狂いになってしまった)
「コピーライターとしての自分」も、こういう人たちの手によって生まれた作品のひとつなのだなぁ、と考えると「あぁ書きたくないイヤだイヤだ」というやっつけ気分な夜にも少しだけ元気が出る。
なんだろう。今日は書き過ぎてしまった。
また6月が来ます。
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