リレーコラムについて

シェア型書店をはじめてみた(1)

樋口尚文

東京コピーライターズクラブの会員になって、あっという間に31年。当時30歳の私がなんと還暦を超えてしまった。ただ、子どもの頃からいろいろなものになりたいと思ったけれども、この齢でふり返るとだいたいそれがかなっていることには驚く。幼い頃からティーンの時分にかけて、将来なりたいと思ったのはなぜか「本を書くひと」「TVCMを作るひと」「映画の監督」「神保町の本屋さん」だった。

中学受験の面接で「将来は何になりたい?」と聞かれて「小説や評論の著者です」と答えたことだけは覚えているが、とにかく映画が好きだったので中学時代から評論めいたものは書いていた。この「本を書くひと」になる夢は意外にあっさりと実現して、大学在学中に橋本治さんや糸井重里さんの本を出していたサブカル思想系の版元の社長さんがどこかで私の映画評論を読んで単行本化を申し出てくれた。

大学生で映画評論の単著を上梓するのは珍しかったので、雑誌『朝日ジャーナル』の筑紫哲也さんの連載「新人類の旗手たち」でとりあげられて、私はなんたることか「新人類」として(!)同誌のカラーグラビアを飾った。ありがたいことに一発屋では終わらず、現在に至るまでさまざまな出版社からオファーをいただき、出版不況にもめげず映画評論の単著は20冊を超えた。昨年は重量2.5キロもある大編著『大島渚全映画秘蔵資料集成』で「キネマ旬報映画本大賞」第一位に選ばれて光栄だった。

バブル期の電通は就職試験の競争率が100倍だったけれども、「学生時代の成果」として初の自著を面接で見せたら、なぜかコネもないのに採用になった。会社に余裕があったとしか思えない。運よくクリエーティブ局に配属となり、遂に「TVCMを作るひと」に接近したが、社からは「CMプランナーになる前にコピーライターの修行をしてから」とおあずけに。

これはもう時効なので言うが、その後一時札幌に転勤になったので、そのタイミングに乗じて支社の総務課に「名刺の肩書はCMプランナーにしておいてください」と頼んだ。私は一度も社の辞令で「CMプランナー」を拝命したことはなく、自分で自分に辞令を出したのだった。まさにちょうどこの頃、TCC新人賞をいただいたのだが、受賞作もTVCMだったので、誰も私が「CMプランナー」だと疑うことはなかった。

そしてまんまと「CMを作るひと」になった私は以後20年間「CMプランナー」として山のようなCMを企画していたが、やがて「クリエーティブ・ディレクター/部長」の辞令がおり(これはインチキではない)、管理職として仕事を後進に譲る頃から、困ったことに今度は「映画の監督」という積年の夢が疼き出した。そして五十歳になった頃、会社から近い銀座のなじみの名画座が、東日本大震災を受けて「老朽化と耐震性を考慮して閉館する」と発表された。

私は映画評論家としてその劇場の番組編成にもかかわっていたので、「この長年ファンに愛された劇場の追悼というふれこみで館内を舞台に映画を創れば、多くのスタアに特別出演を願って天候にもじゃまされず低予算で撮影できるし、公開もここでやれば配給問題までクリアできる」とひらめいて、助監督経験もないのに蛮勇をふるって「映画の監督」をやってしまった。当時はまだ、社員のままで映画監督をやった例は電通史上初であった(映画監督が社員になった例はあるのだが)。もちろんスタッフは、「CMプランナー」の仕事で意気投合した映画の名スタッフ各位にお願いした。これがちょっとしたヒットになって映画は5週間の全日興行を達成、なんと製作費もリクープしてしまった。

そんなこんなの幸運の連鎖でひとつずつ「なりたいひと」になって来た私は、さらに商業映画の監督のオファーも来たし、映画評論の本の依頼も何冊かまいこんだので、さすがにカタギの会社員を続けるのもきびしくなって(でも最後まで会社はいごこちがよかったので後ろ髪をひかれたが)みんなに「もったいない」と驚かれつつ、ちょっと早めに退社してあれこれやりたいこと三昧で暴れまわっていた。

しかし今ひとつ残っていた「神保町の本屋さん」という夢は、さすがに敷居が高く本気で考えたこともなかった。ところが、諸事諦めモードに入るのが普通であろう還暦を迎えた時に、その「まさか」が起こったのだった(つづく)

 

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