リレーコラムについて

ビッカースタッフ脳幹脳炎②

上島史朗

2週間意識を失った僕は、
目覚めた時、自分の身に何が起きたのか

すぐにはわからず混乱しました。

 

髭は伸び、体重は8kg落ちていました。
僕の名前は浦島太郎と2文字違いなのですが、
太郎の気持ちが少しだけ実感できました。
まだ始まったばかりのはずの大相撲1月場所で、
稀勢の里が初優勝していました。
リハビリは、簡単な足し算、引き算。
舌を上下左右に動かしながら「アー」と発語訓練。
そして車椅子から手すりにつかまりながら恐る恐る立ち上がる練習。
片足の痺れがひどいため、ぜんぜんうまく立てない日々が続きます。
普段パソコンを使うと話したら、
キーボードを用意してくださり、早速タイピングの練習。
先日までは当たり前に動いていた指は、ピリピリと痺れています。
特に左の小指が動かず、Aがうまく打てません。
目は両目開けると視界がおかしくなるので、右目は閉じていました。
午前と午後、それぞれリハビリを行ったら、病室に戻ります。

脳神経内科の病室はベッドが6つ。
同室のみなさんは、脳梗塞で入院されている方が多く、
自由時間にこっそりタバコを吸って、
看護師さんに思いっきり怒られているおじいさんもいれば、
僕より若いまだ学生さんのような方もいました。
(ものすごく訛りの強めな東北弁で看護師さんの電話番号を聞いてたおじちゃんもいたなあ。)

毎晩、寝るときは不安が襲ってきました。
こんな状態で復帰なんてできるんだろうか…。
進めてた仕事はどうなったんだろう…。
不安を紛らわしてくれたのは、iPhoneで聞いていたラジオでした。
中でも、野村訓市さんの「Traveling without Moving」という番組から
流れてくる音楽には助けられましたし、その番組のおかげで
今日は日曜日の夜なんだ、ということが理解できました。

ラジオからはもう1つ、驚いたことがあります。
ある日、自分が書いたコピーがラジオから流れてきました。
それも2つ。一つは企業のタグラインとして。
もう一つは、樹木希林さんのナレーションとして。
普段あまりラジオの仕事を担当しない僕が、
このタイミングで2つ流れてくるなんて。

そうやって1ヶ月以上過ぎた頃、
僕の二重に見えていた視界に、すこしずつ変化が起こります。
毎日ほんのすこしですが、像が1つに向かい始めてきたのです。
自分の体の中に起こった小さな快方の兆しを逃すまいと、
リハビリのモチベーションがさらに高くなります。
もともとスポーツが好きだった僕は、朝と夕方、コソ練をすることにしました。
病室の、ロの字をした廊下を歩く練習です。
コソ練といっても、ナースステーションの周りなのでちっとも隠れていませんが、
1周およそ60メートルの廊下を今日は10周、明日は15周、次の日は20周、と増やしてゆき、
何分で歩いたかをメモしてゆきました。
20周で1.2km。
「自宅から駅までの距離は歩けるようになった!」
と、退院した後のことを勝手に想像しながら歩きました。

 

この頃になると、リハビリの難易度も高くなります。
「バランコ」と呼ばれる半球のボールの上に乗っかり、
バランスを取りながら理学療法士さんが投げてくるボールを
キャッチして投げ返したりします。
日常生活でこんなシチュエーションないだろうと
心の中でツッコミつつ、サーカスの象になったような気持ちでひたすらにボールを投げ返します。

速歩にも挑戦しました。10mぐらいの距離を早歩きで往復します。
13秒以内がひとつの目安でした。
理由は、それより遅いと、信号が青のうちに渡れないから。

 

そして、もう退院できるかと思っていた入院1ヶ月半経った頃、
僕は次のリハビリ専門病院に転院することになります。
自分では「もう社会生活送れるよ」と思っていましたが
いま思い返せば、歩けばすぐに息切れするし、
視野はすこし二重に見えているし、「A」のタイピングはできないし、
いろいろまだまだでした。

 

そして、リハビリ病院に転院した初日、1ヶ月半ぶりにお風呂に入りました。
(それまでは、点滴があって簡単なシャワーしか使えませんでした。)
このお風呂、想像とまったく違っていました。
まず、場所は「浴場」ではなく普通の部屋で、お風呂自体が可動式ワゴンのような作りです。
大人が一人、体育座りできぐらいの大きさの空の浴槽に裸で入ると、
ボタン1つでお湯が下から猛烈な勢いでたまってゆきます。
みるみる肩までお湯に浸かることができます。5分ぐらい入っていると、
「もういいですか?」
と看護師さんに聞かれて、お湯がザーッと抜けてゆきます。
つまり1人入る度にお湯を入れ替えるのです。
まだ転倒の恐れのある僕は、一人で大浴場に行くのはダメでした。
でも、全自動ハイテク一人風呂、気持ちよかったです。

リハビリ病院でも、たくさんの先生のお世話になりながら、
僕の身体はすこしずつ回復してゆきました。
幸いにも僕は大きな後遺症が残ることなく、
退院の日を迎えることができました。
謎多きこの病気について、
僕のTwitterに当時描いた絵日記を載せています。
回復までの不安な日々を送っている、100万人に1人の方の参考になれば幸いです。
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