一度目の衝撃
母は、ホラー映画が好きだった。
13日の金曜日を見ている時、僕はまだお腹の中にいたらしい。
そのあまりの恐怖に、母は目を塞ぐかわりに、
お腹を包み隠すように見ていたそうだ。
実家の向かいにレンタルビデオ屋があり、母は足繁く通った。
エクソシスト、キャリー、チャイルド・プレイ…。
母の横で、物心ついた僕も見ていたが(何も言われなかった)
いま考えると悪影響は……でていないと思いたい。
僕の中で、ホラー映画への耐性は育った。
ゾンビ映画が好きだ。
それまで、ごく当たり前だったものが、
ある日突然まったく別のものに変わってしまう。
日常の変異に直面した人々が迫られる、
苦悩や葛藤、決断に惹かれる。
(韓国のゾンビ映画『新感染』は、まさにそれだった)
いま、僕たちが目にするゾンビ映画は、
ひとりの映画監督がいなければ生まれなかった。
ジョージ・A・ロメロ。彼が登場するまで、
ゾンビという存在(というか、その名前すらない)は、
怪しげな魔術師が操る脇役でしかなかった。
人を襲ったり、人を食べたりするルールもなかった。
それを、ロメロが変えた。
人間を襲う。襲われた人間も、ゾンビになる。
人間を食べる。のろのろとゆっくり歩く。頭を壊さなければ倒せない。
ゾンビのおなじみのルールはすべて、彼がつくった。
その始まりが『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』という作品だ。
もうひとつ、ゾンビ映画の好きなところ。
それは、メタファーの装置として優れていることもある。
『ナイト・オブ〜』は、公民権運動のメタファーとも言われる。
1968年の公開当時、アメリカでは黒人差別に抵抗し、
自由を勝ち取るための公民権運動が燃え上っていた。
そんな中、『ナイト・オブ〜』は一部の観客たちに熱狂をもたらした。
理由のひとつは、主人公が黒人男性だったこと。
彼はゾンビから逃れ、白人たちと一軒家に立てこもり、
リーダーシップを発揮する。裏切ろうとした白人男性を殴り倒す。
当時、黒人と白人をそのような関係性で描くことはなかった。
元は同じ人間だったゾンビを、
躊躇なく狩っていく人間の姿も一種のメッセージに思える。
(ネタバレになるので控えるが、エンディングも意味深)
画期的なゾンビという装置を使い、社会への異議を表明した。
当時の観客たちの衝撃は、どれほどだったのだろうか。
ちなみに、ロメロ本人は、
「黒人を主役にしたこと?偶然だよ」と生前に語っている。
その心中はわからない。
時代とともに、ゾンビのルールも変わった。
走るゾンビもいる。最近は、年齢制限システムの影響もあり、
直接的な人を食べるシーンは避けることが多い。
大群の虫のように描かれ、集団で襲いかかる。
ゾンビの発生原因も、世紀末思想の死者の蘇りから
未知なるウィルスが主流になった。
そして、これから。映画のような世界が、
本当の世界になってしまった中で、どう変わっていくのか。
ゾンビは、発明だと思う。
小さなルール変更はあっても、大きなフレームは変わらない。
たったひとつのアイデアから、無数のアイデアが生まれ続けている。
尊敬する。そして、嫉妬する。
猫を飼ったら、ロメロと名づけたいくらいだ。
今のところ、飼う予定はまったくないけれど。