低い目線
なんでもない1分間の記憶なのだが、
いまだ強く印象に残っていることがある。
話は小1くらいに遡る。
当時、近所の兄ちゃんたちとよく遊んでいた。
兄ちゃんたちは2、3コ上だったと思う
あの頃にはずいぶん年上に見えた。
兄ちゃんたちはちょっと悪ガキなところもあったが、
牛丼屋に行って「うまいだろ」とごちそうしてくれたり、
本屋に「おとなの」本を見せに連れて行ってくれたり、
知らない世界を知っている存在だった。
兄ちゃんたちとの記憶で思い出に残っているものがある。
それはうちのはす向かいにあった「ブロック塀」。
そこから飛び降りられるヤツが「えらい」し「つよい」という
風潮がぼくらの中にはあった。
身長の2、3倍はあろうかというブロック塀。
兄ちゃんたちのように飛び降りることはできなかった。
それは男になるための“壁”そのものに見えた。
ある日、意を決して塀から飛んでみようと思った。
登り方は今でも覚えている。
はす向かいのアパートの門に足をかける。
まずは門の上によじ登り、
そこからブロック塀の上へと伝っていく。
ジェットコースターがだんだん登ってくのと
似たような気分で塀の上に着くと、
「高い…」
地面ははるか向こうの谷底だった。
「高さ」というのは、万国共通の本能的な恐怖だ。
バンジージャンプも、元はどこかの民族の通過儀礼だったと聞く。
まさしくこれは6歳児にとってのバンジージャンプであった。
ここでひるんでは“男”にはなれない。
足をすくませながら、
息を止めて、決死の覚悟でダイブした…!
じ〜〜〜〜〜〜ん
「痛い…」
足の裏から骨にビリビリと衝撃が伝わってくる。
骨身にしみるとはこのことだが、その痛みに
ちょっとだけ大人になった実感を噛み締めていた。
そのまちは小2で引っ越すことになった。
といっても、最寄駅も学校も変わらなかったのだが、
自然とそのまちに行くことはなくなっていった。
時は経ち、大学生になったある日。
自転車で家に帰る途中にふと思い立って、
当時のまちを通ってみようと思った。
「なつかしいだろうなぁ」
とワクワクした気持ちで自転車を漕いで行くと
愕然とした。
「まちが、縮んでる…!」
おにごっこしたり、かくれんぼしたり、
遊びのほとんどが、車が1台しか通れないような
家の前のちいさな通りでの出来事だった。
その通りのはじめから終わりまでがぼくらの宇宙で、
広い道に出るとそこはもう「別の宇宙」だった。
「宇宙」は、自転車で1分にも満たない時間で
通りすぎてしまった。
「こんなに短かったはずは…」
驚愕していると、例のブロック塀を見て
さらに衝撃を受けた。
「低い!」
大人の世界と子どもの世界を隔てていたあの壁は、
胸の高さほどしかなかったのである。
はるか高く、空と一緒に見上げていた壁を
今は見下ろしている自分がそこにはいた。
「あのまち」はもうなかった。
ここで気づいた。
「あのまち」をつくっていたのは、
道路でも、建物でもなく、
身長1mに満たない低い目線だった。
もうあのアングルからは、
ものごとを見ることはできないことを
身体を通じて教えられた。
背が伸びただけ、といえばそれまでだが、
なにかを失ってしまったような衝撃があった。
* * *
年齢や、立場や、環境ごとに、
そのときどきのアングルでしか、
見られないものがあると思う。
高い視点は、遠くを見渡せる。
低い視点は、近くがよく見える。
ビジネスの話を進めるには、
世の中を見据える高い視点が必要になる。
でも、人が思わず反応してしまう部分は、
低い視点からしか見えない機微なのだと思う。
子どもは半径1mの世界しか見えてなくても、
大人がドキッとするくらい「近く」はよく見えている。
高い視点は、
年齢とともに備わってくる部分もきっとある。
でも低い視点は意識して保たないと、
あっという間に忘れていってしまう気がする。
「高いコピー」「遠いコピー」もかっこいいけれど、
「低いコピー」「近いコピー」も書ける人間になりたいと思う。
ブロック塀から飛び降りたときの、
あの足の裏の痛みを、忘れないでおこう。
* * *
今週のコラムはこれでおしまいです。
コラムを1つでも読んでくださったみなさま、
ありがとうございました!
次週から新人賞同期の石倉さんにバトンをお渡しします。
石倉さんの受賞作のアイデア、個人的に大好きで、
理想のアイデアの話をコラムに書きましたが、
まさにシンプルなひと突きで突破口をつくる、
嫉妬してしまう企画です。
石倉さん、リレーをつないでくださり、
ありがとうございます。
次週からよろしくお願いします!