リレーコラムについて

家族とコピー年鑑の話

後藤国弘

さて、コピーライターであれば、念願の新人賞を受賞してTCC(東京コピーライターズクラブ)の会員になれた時などは、家族にも報告して喜んでもらいたいと思いますよね、というお話です。今日はクリスマスイブですし、大人たちも自分の親のことを想う時間になればいいなと願いながら。

コロナ禍や東京オリンピック・パラリンピックなど大きな出来事が続いた2021年でしたが、僕には亡き母の三十三回忌の年でもありました。身内の話でスミマセン。和尚さんのお話では三十三回忌というのは弔い上げと呼ばれていて、その年で故人の年忌法要を終わりにすることが多いのだそうです。それは今年の9月に故郷の信州・諏訪で、こじんまりと執り行われました。

母が亡くなったのは32年前。TCCの大先輩でもあるコピーライター、岩永嘉弘さんの事務所で僕がアシスタント生活を始めた年です。恥ずかしながら母との関係が長いことうまくいっていなくて、その頃の僕は全く実家に帰っていませんでした。そんな中で母がガンを患い、大きな手術をすることになります。父からは「お前は手術の日に帰ってこないほうがいい。大変な病気なんだと、母さんに気づかれてしまうから。」とクールに言われてしまうほど、本当にダメな長男でした。

父の言葉に従い、手術の翌日になって僕は病院に行きました。母はICU(集中治療室)のベッドの上で、まだ眠っています。面会者は白衣を着て、頭にヘアキャップ(当時は髪もフサフサでした)を着けて、短い面会時間を待ちます。中に通されてベッドの横に立ち、ゆっくりと目を開けた母が僕の顔を見つめながら絞り出すような声で発した言葉を、今でも忘れることができません。「国弘、そのヒゲ剃りなさい、、、」。その後、すぐに病院の中にあった大浴場に入り、ヒゲを剃った顔を見せたことは言うまでもありません。

残念ながら、その手術から1年半後に母は旅立ってしまいます。享年50歳。僕が26歳の時でした。「いろいろつまった、大人になろう。」というプチダノンのテレビCMの仕事(銭湯の女湯を舞台にした企画で、現在のコンプライアンスでは放送が難しいかもしれません笑。)で僕がTCCの新人賞をいただいたのは、それから8年後、フリーになって4年目のことです。念願の新人賞を受賞して、TCCの会員になれた自分が載っているコピー年鑑を父と弟にも見てほしくて実家に送っておいたら、しばらくして帰省した時に、その分厚い年鑑が当時はバンド活動もしていた弟のスピーカーの台として使われていたなんてこともありました。おそらく今でも一番くらいに分厚い1997年のコピー年鑑は、安定感も抜群だったようです泣。

5回目の今日もコピーライターのためになるお話では全くありませんでしたが、メリークリスマスということで、どうかお許しください。僕のバトンを受け取り、年明け(1月11日〜14日)にこのリレーコラムを担当してくださるのは、ラジオCMの名手である梅田彰宏さんです。20年前は僕にバトンを渡してくれた梅田さんに、今回はバトン返しをさせてもらいました。どうぞお楽しみにです!それでは皆さま、よいお年をお迎えください。

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