批評
とかなんとか、どうでもいいことを書いているうちに、もう金曜日で最後の回です。最後は、丸谷才一について。
丸谷才一は小説家/文芸批評家で、「笹まくら」「横しぐれ」「裏声で歌へ君が代」などの傑作を書いた人だから、読んでいる人も多いでせう。(という風にしゃれた旧仮名遣いで書くことでも有名。)「日本語のために」は言葉を職業にするならぜひ読んでおきたい一冊だし、第一、読んでて大笑いするくらい面白い日本語の本です。
この人は、「食通知つたかぶり」という食べ物の本も書いていて、これも非常においしそうないい本です。ですが、今回書くのは、この本のことではありません。そうではなく、丸谷才一が、邱永漢「食は広州にあり」の、中公文庫版の巻末に書いた、「解説」について。1冊の本ではなく、「解説」、ほんの数ページしかない小品、これが天下の名文なのです。絶対のおすすめ。
文庫本というやつには、だいたい、巻末に、「解説」というのがついていて、評論家とか、別の作家とか、翻訳者とか、作者にゆかりの人とかが、この作品はどこそこが素晴らしいのだ、などとたまにいいことを、たいていは駄文を書いていますね。大体は読みさえすればただちにわかることが麗麗と書いてありますが、あれはほとんどの場合、この本を買おうかどうしようか、と迷っている人が書店で本文を読む前に読むもののようだから、景気よく褒めてあればそれでいいのでしょう。
邱永漢の「食は広州にあり」、これも傑作でお勧めしたい本です。邱永漢は、後には「金儲けの神様」などという変な称号を賜るほど、投資家として大儲けをしてインベスター大金持ちの代表みたいになった人ですが、出自はもともとは小説家で、面白い本をたくさん書いている。
しかし、何冊か書いた食べ物の本の1冊、「食は広州にあり」の、本文以上に素晴らしいのが、丸谷才一が巻末に書いた「解説」なのです。後に、邱永漢自身が、「自分でも全く思っていなかったことを指摘して頂いた」という意味のことを書いている。これを読むためだけに、中公文庫の本を買っても損はないくらいです。(中公文庫じゃない他の版ではダメですよ。解説が載ってないから。)時代背景から説いて、この本が時代にどういう影響を与えたか、邱永漢の出自、そこから邱永漢がなぜこの本を書いたか、まできわめてコンパクトに鮮やかに切って、あっと驚くようなことが書いてある。まだ読んでない人は、ぜひ読んでください。
大袈裟に言うならば、僕はこれを読んで、「批評文」というものの書き方を教わった。というより、世の中には、「批評文」というものが実在するんだ、ということを知った。それまで、「批評」などというものは人が書いたものの尻馬に乗って、人のフンドシで相撲を取っているだけの、読むに値しないものだと思っていた。一人前の文芸とは呼べないような代物だと思っていた。しかしこれを読んで、「批評文」というのも小説や戯曲と並ぶ立派な文芸なのだ、と教えられました。
コピーライターというのは、「創作」と「批評」を同時にやらねばならない仕事だ、と僕は思います。作家だったら、創作をしていればいい。小林秀雄のような専門の批評家だったら、批評をしていればいい。しかし、コピーライターというのは、それを同時にやらないといけない。創作、つまり創り出さなければならないのはもちろんです。でも、創るだけではダメで、同時に、その創りだしたものに対して、「これはいいものなのか?」「なぜいいのか?」「なぜダメなのか?」「いいとしたら、どこがいいのか?どういいのか?」などを瞬時に考え出さないといけない。そうでなければ、創ったものの中でどれがいいのか、どの1本のキャッチが世に出すに値するものなのか、という判断ができない。100本も200本もキャッチを書いて、その中の1本しか世に出せない、となると、その良し悪しの判断をつけることは大変な苦痛な作業であることは、東京コピーライターズクラブの皆さんなら、もちろん身に沁みてご存知でしょう。そして、それの良し悪しの理由を、言葉にして人に伝えることができなければ、第一プレゼンができない。言葉を買ってもらうことができない。つまり商売にならない。そう考えると、いいものを創ることはもちろんだが、それを批評できることがどれほど重要なことか、は誰でもわかることです。
批評とは何か。批評の定義、というのは色々あるようですが、私が最も納得するのは、「批評とは、書いた本人も気づいていない、その作品の美点、長所を見出して指摘すること」というものです。文章なら「書いた本人」、美術批評なら「描いた本人」です。
文を書く、というのは、地図を持たずに樹海を歩き回るようなものだ、というのは、コピーライターなら誰しも痛感しているでしょう。海図を持たずに海に漕ぎ出すようなことだ。言葉は海のようなものだ。無限にある。整理整頓されてもいない。意味と、音と、かたちと、それにまつわる文化とが複雑に入り組み混ざり合って、まったく秩序のないカオスをかたちづくっている。例えば駄洒落、というレトリックは、偶然にも、意味は全くかけ離れているのに、音はすぐそばにある、という特殊な場所にたまたまたどり着いた幸運な者だけが授けられる、神様のプレゼントのようなものだ。(文学史の方では、駄洒落、と言わずに、掛詞、かけことばというゆかしい名前を持っている。)比喩、というレトリックは、あるものは何々みたいなものだ、という類似を発見して、2つのイメージを爆発的にふくらましてゆく爆弾のような技法だ。(「元始、女性は太陽であった」)使い間違うと自分自身を傷つける。
こんな無限のカオスの中を歩くのに、自分は今どこにいるのだ、などと分かっている人がいるはずないのは当然でしょう。創るときは闇雲に、手探りで、盲めっぽうに歩いている。そこで、批評の登場になる。君は今、どこにいるんだよ、と指摘してあげる。「書いた本人もわからない」その作品の長所を、ここなんだよ、と言葉にしてあげる。地図を授ける。創作と批評、そんな全く違うことを、同時にしなくちゃいけない。それがコピーライターという仕事らしいのだ。(書いた本人であるにもかかわらず。)言葉を創り出し、選択し、提案し、送り出す。頭を2個使って、右脳と左脳を巧みに使い分けて、感情的・感覚的に非常に印象深くありながら、経済的な論理も明快に通っている、そういうものを日々生み出していく。そんなことが誰にでもできることではない、極めて専門性の高い技能であることはいうまでもないじゃないか。滅多にいないはずじゃないか。すごいんだね俺たちって。
この仕事、やってもやっても飽きない、それどころかやればやるほどわからなくなって、ますます深堀りしてみたくなる、その理由はこんなところにもあるのかもしれない。と、思っている、コピーライター42年目の男でした。
最後に、これもどこかで読んだ受け売りだが、「批評の3原則」というのをご紹介。
- その作品を愛せ。悪口を言ってやろう、けなしてやろう、などという動機でしゃべっちゃいけない。
- 最高の基準を振りかざせ。まあ、この場合は、こういう立場だから、このへんがいいところかな、などと思ってはいけない。
- 自分のことはタナにあげよ。俺は夏目漱石のようには書けないから、漱石の話はしないことにしよう、などと思ってはいけない。
だって。
1週間、おつきあい頂いてありがとうございました。もしかしたら最後には面白くなるんじゃないか、とか思って最後まで読まれた方、どうです、最後まで面白くなかったでしょう。だから言ったじゃないか。
さて、来週は、いよいよ博報堂の木村透さん、キムトウさんの登場です。「やっちゃえ日産」などの名作をざくざく創った、今一番博報堂で信頼されているコピーライターです。今週はがっかりした皆様、来週は、面白いこと請け合いですよ。