時間に関する小考察
株式会社ヒサオ・オオツカの大塚久雄さんからバトンをいただきました。
電通の山中康司です。
大塚くんが独立してからもう2年になる。
感覚的にはあっという間。
大塚くんがタバコをやめてからもう3年になる。
感覚的にはあっという間。
にもかかわらず、確実に3年分、
大塚くんより僕の肺は、タールで汚れつづけている。
自覚のないまま。
時間というものは、本当にままならない。
今朝も、それは狂っていた。
バス停に着いた時、僕の腕時計は「10時20分」を指していた。
そのはずなのに、乗る予定だった「10時22分」発 名古屋駅行きのバスはもう出発していた。
確かにその時、僕には10時20分だった。
でもバスの運転手には10時22分だったのだ。
それぞれの人に、それぞれの時間が流れている。
どちらの時間が正しいのか。それは誰にも決められないのではないか。
(おそらくバスの運転手の方が正しいのだが)
ただ絶対的に確かなのは、バス停に一人、僕だけが取り残されたという現実だけだ。
年単位の長いスパンだと、時間は僕とはあまり関係ないものという気がする。
分単位の短いスパンだと、時間は僕になくてはならないものに感じられる。
マクロとミクロで全然違う。いつか同じ感覚を味わったことがある。
あれは、大学で量子力学を学んでいたとき。
量子の世界は、僕たちが生きているこの現実世界と常識が違う。
それなのに、その量子で現実世界はつくられている。
そういえば、1秒という時間は原子を用いて定義されていた。
1秒=91億9263万1770回のセシウム133原子の放射線の周期
現在1秒は、セシウム133原子が放出する特定の周波数の放射線が振動する回数を基準にしている。
1967年からこの定義が採用された。
それまで1秒は、天文台で、太陽の動きに基づいて計測されていたらしい。
時計の針は、天文観測の結果を元に調整されていた。
マクロとミクロの観測に違いはないのだろうか。
1967年、僕はまだ生まれていないけれど、
その時、1秒の基準がセシウム133原子になったと聞くと、
そこから世界の時間は、どんどんと忙しくなっていったようにも感じる。
基準が変わってしまったのに、
それが世界の時間に影響を及ぼしていないなんて、誰にも言い切ることはできないのではないか。
(おそらく、その正確性にそれほど違いはないのだろうけれど)
僕は、セシウム133原子が基準ではなかった頃の時間の流れを感じてみたいと思った。
時間について、ひとつ確かなこと。
それは、誰にとっても大切だということ。
そんな大切な時間を、僕は何に浪費しているのか、
次回はそれを考えてみたいと思う。
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