最上級表現
広告とは何か、と人に聞かれたら、「欲求のエンターテインメント」と答えることにしている。本当は、「欲望のエンターテインメント」と言いたいのだが、欲望、というと穏やかでない意味にとられかねないので、一応、お行儀よく、「欲求の」と言っている。でも本当は「欲望」なのだ。人間のあらゆる欲望を下敷きにしたお座敷芸が、広告だ、と私は本気で思っている。実際、どんなに華やかな言葉や、美しいビジュアルがあったとしても、その基盤に人の欲望が置かれていなければ、切実な願いがなければ、広告は効きはしない。というようなことは、東京コピーライターズクラブの会員の方々なら、聞くまでもない当たり前の話でしょう。
そこで、食べ物なら、基本は食欲、ということになる。着るものなら、自己表現の欲求だし、生存そのものに根差す欲求だってある。もちろん、食べ物だって食欲だけではない。きれいなレストランに女性を連れていって口説きたい、と思っている男は多いだろうし(僕はやらないよ)、逆に「おふくろの味」とやらで家庭的な性格をアピールする、とかいう女性もいるでしょう(たぶん)。いずれにしたって、基本は「欲望」なのだ。目立ちたい、人の上に立ちたい、楽したい、仲良くしたい。無数にある欲望のどこかに軸足を置いていないと、広告なんて効きはしない。
そこで、(何がそこでだ)、檀一雄である。「檀流クッキング」「美味放浪記」など数冊。これは本当に欲望を「そそる」本です。特に初心者に手料理の手引きをした「檀流クッキング」。これを一読すると、たちまちその料理を作ってみたくなる。今すぐやりたくなる。それくらい、うまそうで、簡単そうで、作るのが楽しそうに書かれている。
ところで、この本を読んでいると、あちこちに、「最上級表現」が出てくる。「これほどうまいものはない」とか書いてある。もう少し読んでいくと、また別の食べ物について「これほどうまいものはない」と書いてある。さらに先にも「これほどうまいものはない。」ここまで直接的ではないことが多いが、よく読むと、最上級表現のかたまりなのです、この本は。読んでいると、しまいには呆れて、「アンタは一体、何が世の中で一番うまいと思ってるの?」と聞いてみたくなる。それくらい、「これほどうまいものはない。」ばっかり。何なんだこれ?
そこで、ふと、あることに気づいた。この作家は、要するに、「たった今、自分が食っているものが、どこの何より一番うまい」と言いたいのだ、と。過去に食ったもの。うまいと思ったもの。うまかったなあ、という経験。そんなものは、今、ここにないじゃないか。味がしないじゃないか。それよりも、たった今、ここにあって、自分がまさに食っているもの。それよりうまいものが、あるはずがないじゃないか。この人はどうやら、そう言っているらしい。感覚と知識を較べるな。具体と想像を同一線上に置くな。感覚は具体的で、直接的で、今そこにあって気持ちの良い何かである。知識は、要するに今感じることは決してできない、残像に過ぎない。そんなものが、いままさにある感覚に、太刀打ちできるはずがないじゃないか。欲望を充足するはずがないじゃないか。そう言い続けているのだ。本人がそれを意識しているのか、無意識なのかは別として。
これに気付いた時、僕は、うーん、と唸ってしまった。まず、世によくある、グルメガイド本、食通のお店案内、というようなものが全部、色褪せてしまった。知識はしょせん知識だ。それより、今、自分が食べているものを、ちゃんと味わえ。それが、人生の快楽ではないか。そう思った。世の中には、「おいしいもの」というものがあって、それを食べるとおいしいのだ、と多くの人が思っている。だから、「おいしいものはどこにある?」と探したりもする。しかし、それは間違いだ。「おいしいもの」なんてない。「おいしく食べる」という行為が、出来事があるだけなのだった。
それから、思った。俺は広告コピーというようなものを職業で書いて、何をしているんだろう?と。広告コピーの出る場所は、多くの場合、商品はそこにない。たまに、売り場で試食会なんかやってることもあるけど、まあ例外でしょう。食べ物のこととして、人がコピーを見たり聞いたりする場所には、その食べ物はない。味わうことはできない。そんなものを、言葉を飾って、レトリックを効かせて、うまそうに書いても、記号の羅列に過ぎないじゃないか。テレビ画面をなめても味はしない(これは前回も書いたか)。甘い、という言葉は別に甘くはない。
これは食べ物のことに限らない。風を切って颯爽と走る自動車のCMの映像があったって、私たちの頬は実際に風を感じはしない。重力を感じはしない。その記号があるだけなのだ。部屋中が涼しくなります、というエアコンのCMを見ても、体感温度は暑いままだ。それは、ただの符牒に過ぎないのだ。実際に、「こんな気持ちいいものはない」と人に心の底から言わせるのは、本物、実物だけなのだ。
私たちの仕事は、記号で、実物と戦っている。竹槍で飛行機と戦うように。絶対に勝ち目のない戦いを。空疎なシンボルを並べて、「うまいぞ」とか言い放って、「こんなうまいものはない」本物と勝負しているのだ。実は、とんでもない負け戦の連発が、コピーライターってやつらしいだ。
檀一雄の何冊かの本を読んで、私はそんなことを考えた。そして、思った。
まず、概念に過ぎないことを書くことはやめよう。いつでも、実際に意味される実体の存在する、具体的なことだけを書くようにしよう。この記号が、意味する実物は何なんだ?本当にあるのか?といつも問うようにしよう。言葉を言葉で説明するような、無内容なことは何の意味もない。
それから、ひたすら、考えた。実際には味のしない言葉を使って、ものをうまそうに感じさえることが自分の仕事なのだったら、どうすればそれを感じさせることができるのか、その方法をほんの少しでも考えだそう。そして、いくつかのガイドラインを考えた。その方法論のリストもあるのだが、書くとものすごく長くなるし、聞くに値しないたわいのないことばかりなのでもう書くのはやめる。
広告が「欲望のエンターテインメント」だとしたら、その欲望を本当に満たしてくれるのは、実物だけだ。記号や、映像ではない。その、限りないはるかな差を、隔たりを、僕たちは「エンターテインメント」の部分で埋めてやろうとしているらしい。なんという勝ち目のない、困難な、それだからこそ面白い仕事に、僕たちはついているのだろう。
どうです、依然として面白くないでしょう。