汽水域
何年か前、一冊の句集が手元に届いた。
福本ゆみさんの句集だ。
この世界ではずっと男縦社会の末っ子(ほぼひとりっ子)状態だった。
だからか、いく人かの女性の先輩を遠くから勝手に慕っている。
ラジオの先生である中山さん、
最初にコピーの質問に行った太田さん、
そのエネルギーを一方的に浴びさせてもらっている児島さん。
福本さんも、会えば「頑張ってる?」と声をかけてくださる大切なひとりだ。
年の離れた姉、一緒に暮らしたことはない姉のように本当に勝手に慕っている。
句集の表題は「汽水」という。
小学生か中学生かの頃の、理科か社会かの教科書で、
なんとなく目にした記憶のある単語。
淡水と海水が入り混じった、あの汽水だ。
団地暮らしだった少年時代の僕にはリアリティを伴わない単語だったが
その句集を手にした時は、妙に自分の何かとその単語が付合した。
汽水域は、淡水と海水が入り混じるその特異な領域をいう。
川へ上る魚はしばらく汽水域で浸透圧を適応させ、その耐性を作る。
海へ下る時も、汽水域で次の世界へ対応する自身の変化を待つ。
濁った、けれど栄養に溢れたこの水域が、次の世界へ自らを放つ準備をさせる。
二つの大きな領域をつなぐ、複雑で豊かで奇妙な場所だ。
僕は広告屋として、この汽水域のようなところに身を置いている気がする。
商品が、ブランドが、企業の中から世間という環境の異なる大海に出ていく。
その狭間に僕たちはいる。
以前、とあるプレゼンテーションで
「消費者の代表としてお話しします」と語り出した戦略だけを担当する人がいて
僕は聴きながら「あぁそれは嘘だ」と思った。
僕たちはただの一般人ではない。
そして、クライアントそのものでもない。その狭間に、
異世界をつなぎ、どちらでも生きることを考える領域に僕たちはいる。
無意識の日常、邪気のない素人目線に対しての、プロ、という特異な場所にいる。
商品が、ブランドが、世間という場所に身を置いたときにも
逞しく生きていく、そのための変容を思考する場所にいる。
汽水域そのものに生息する動植物も独特だ。
その領域だからこそ、生まれ育つものがある。
広告表現もきっとそうだ。
そこから、だからこそ生まれるものがある。
むしろそれが生み出されなければならない。
淡水や海水に存在するもののトレースや模倣に意味はない。
そもそもそれらは、どちらかでしか生きていけない。
また一方で、あまりに広告的すぎて、結果どちらでも生きていけない脆弱な代物を作り出してもいけないだろう。
澄んだ川と広い海の両方で生きるために、
僕たちの、不安定でしかしエネルギーが充満した濁りがある。
僕たちの世界が美しくなることは、整理されることは、それらを装うことは
実はとても危険なことなんじゃないだろうか。
汽水域で、僕たちが濁りの中で、何かを変換し生み出すことで
川での生命と海での生命が両立し、息づく。
僕はそこにちゃんといるだろうか。
汽水は素敵な句集だった。
キスイイキ、は五文字だが、
こういった気持ちを五七五にする技術は僕にはまだない。
でも自分の居るべき場所は、教えてもらった。
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