蝉
蝉がこわい。
何を考えているのかわからないから、こわい。
いきなり暴れだすから、こわい。
それを見てこちらがパニックに陥ると、
なおさら暴れまわるから、こわい。
蝉を前にして、すまし顔ではいられない。
電車の中に蝉が飛び込んでくる。
こっちに来るな、という祈りはたいてい通じない。
暴れまわる蝉の声に負けないくらいの大きさで
うわあ、と叫んでしまったことがある。
ファミレスの扉と扉の間にある
四角い空間(風除室です)に蝉が迷い込む。
深夜のファミレスに勇者はいない。
早く家に帰りたいのに、
清掃のお兄さんがやってくる早朝まで
こわくて退店できなかったことがある。
蝉との戦いに終わりはない。
一年のうちの二ヶ月ほどの戦いではあるけれど、
それは夏に、毎年かならずやってくる。
エレベーターの乗るときは油断をしない。
閉ボタンを押した後では取り返しがつかない。
洗濯物にも油断はできない。蝉は布にしがみつく。
時間帯でいうと、深夜があぶない。
声がしないからといって安心はできない。
夜の蝉は、無言でゆっくり迫ってくる。
蝉の脅威から身を守るために、
常に緊張感をもって行動したい。
今年はまだ、蝉の声を聞かない。
蝉の脅威はまったくない。
蝉との戦いが始まる兆しもない。
けれど、どういうわけか
この不戦勝を素直には喜べない。
蝉のいない夏は、なんだか物足りない。
あのうるさい声がないと、すこしさみしい。
なにをしても張り合いがない。
どこに行っても緊張感がない。
蝉が恋しい。
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数年前のC-1グランプリ。「新しいことわざ」のお題で
「昔持てた蝉」という言葉がグランプリになりました。
(僕が応募したわけではありません)
たしかに、昔は持てました。よく捕まえて遊びました。
それなのに、どうして今は持てないのか。不思議です。