明と暗
高橋一起
●ビジネス社会を離れ、1年間の山暮らしをしていたときのことです。
山暮らしをすると、都会生活で忘れ去っていたことをいろいろ気づかされる。
たとえば、明と暗。
都会では、夜は包括的に訪れる。
照明が灯ることによって、すべてのビルに、タクシーに、お店に、街路に、
いっせいに夜が訪れる。
暗さというのは、電力による明るさによって一様に意識する。
しかし、森は違う。
森が暮れようとするとき、闇は一挙に訪れるのではない。
降りそそぐ光が地表に近づくにしたがって色を失い、それが少しずつ闇として
溜まってゆくものなのだと教えられる。
夜は、だから、地表から始まる。空はいちばん最後だ。
都会ではまっ先に空が暗くなったような気がするが、違うだろうか。
森では足元に闇が溜まり始めても、
梢には空から染みこんだ光がまだ残っているのだろう、日が沈んだあとも、
しばらくは葉先が内側から発光しているかのようにほの明るい。
が、ある瞬間、である。
葉先が突然に光を失う。
徐々にではない。
それは、一瞬ぼくが視力を失ったのではないかと思うほど、唐突である。
何度目かに、その理由がわかった。
それは、残像として梢の輝きがまだ目の中にあっても、
もう一方、足元から溜まってきた闇の方が、
そのとき目の高さを超えてあふれたせいなのだった。
都会ではこのようなプロセスは味わえない。
心がけしだいで味わえることかもしれないが、
やり残しの仕事に没頭している夕方の時間帯のこと、
少なくともぼくは、それどころではなかった。
こうして闇が溜まってくると、都会っ子はごく当然のように電灯のスイッチに手をのばす。
しかし、ここでは自然のままの光の増減を愉しんだ方がよいのではないか、
しだいにそう思うようになってきた。暗さをすぐさま人工的な光で打ち消すのではなく、
もうしばらく闇を受け容れてみてはどうだろうかと。
夕方になり、暗くなっていく部屋に黙って座り、物が輪郭を闇に溶かしていくのを見ている。
この時間を味わえる贅沢を知るべきなのだ、軽薄な自分にそう言い聞かせながら。
考えてみれば、物(存在)は明るいから見えるだけではない。
みんな半分は、目に見えないものを見て暮らしてきたのではなかったか。
それを思い出させてくれる森の闇である。
山の暮らしのカルチャー・ショック、これがその第4号だ。
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