スーパー大津の100円市
高橋一起
●ビジネス社会を離れ、1年間の山暮らしをしていたときのことです。
スーパー大津のチラシが1週間にいちど、火曜日に入る。
100円市。それは幸せに会いに行く合図だ。
まず、そこに至る道がいい。
たとえば夏。
アカツメクサ、シロツメクサの花。野の菊。花豆の紅い花。
キャベツ畑。ジャガイモ畑。トウモロコシの畑。牧草地。
そこに一本の農道。
森閑として音がない。
よく深夜や早朝の静けさを口にするが、真夏の白昼の田舎道ほど、
カーンとした静寂につつまれるところはない。
人は誰もいない。鳥も飛んでいない。
影さえもつかないほどの日照りである。
大気は乾ききり、透きとおって、湿りっけがまったくなく、
森の奥の奥まで見通せそうな光の届き方である。
生きものの呼吸を許さないほどの静寂。
そこに学校帰りの少女が独りで歩いていたりすると、
もう涙が出そうなほど寂しいのである。
そんな道をゆっくり走る。
草も木も山も空も、すべてが欲深でない。
あれが欲しい、あいつが羨ましい、そんなことは言っていない。
ここでは、みんなが足ることを知っている。そう感じる。
ほんとにそうかどうかは別としても、スーパー大津に向かうぼくの心からは、
少なくとも貪欲さが洗い落とされていく。
道中30分。
着くと、東京で500円以上したものが100円で売っている。
安い。だけど、「得した」ではない。「100円? なんて豊かなんだ」である。
100円が胸を張っている。
売り手もこれだけの物を100円で売れることが誇らしそうで、ニコニコしている。
「みんなで分けっこだよ。いくらでもあっからね」
「持ってったら、しるしに100円置いてってよ」
長年とらわれていたお金の首枷がゆるゆるにならないとしたら、
ぼくは相当病んでいると言われても仕方ないだろう。
が、幸いなんとか気がつく。。
貧富とは持っているお金の多寡ではなく、同じ100円を何倍に感じられるか、
その価値観の問題なのだと。
一食に何万円も払い、上質のスーツに身をつつみ、
車をしょっちゅう買い換えていた自分が急に恥ずかしくなる。
その頃の方が、ぼくはずっと貧乏だった。
スーパー大津から帰ってみると、
きょうも玄関先に「野菜の船」が着いている。
しかし、どこから来た船かはわからない。
近所に何軒かある農家のどなたかが、
採れたてのキャベツやトマトやキュウリを段ボール箱いっぱいに、
黙って置いていってくれるのだ。
ああ。ぼくはいったい誰にお礼を言ったらいいんだろう。
山の暮らしのカルチャー・ショック、これがその第5号だ。
★
カルチャー・ショックも、きょうで終わり。
次週からは、前世でぼくが長兄、彼女が末弟だった丸山暁美さんです。
ちなみに、吟遊詩人と言われています。
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