いと、をかし - 貸切り2 -
(前回のつづき)
彼の腕をつかんだ。堅い。重い。ひっぱると肩からもげそうな気がする。太ももをラグビーボールのごとく腕の下に抱え込んでやっとこさ浮上し、プールサイドにそっと彼を寝かせる。「助けて!誰か!」何度か叫ぶが。なんの応答もない。このプール、なんで監視員がいないんだろう。白い背の高い椅子は、主のいないままそこにある。まるで絵葉書みたいだ。だめだめ、そんなことを考えている場合じゃない。
館内へつづく入り口にダッシュする。ドアが開かない。
「開けて。人が溺れたんです。助けて!」
ガラスをがんがん叩くが、全く応答がない。人の気配がない。私の心臓はバクバクしてきた。
「なんで?ここ、いったい何なの!」
彼の元に戻る。脈をとりながら、耳を彼の胸にあてる。やばい。マジで。どんどん白くなる彼の顔を見ていると、もうやるべきことは一つしかない。おもむろに彼の鼻をしっかりつまむ。気道を確保すべく首をぐいっとあげて、私の口で彼のくちびるをおおった。息をブワーッと吹き込む。ほおをふくらませて、何度も何度も吹き込む。中学時代、九州で5本の指に入る強豪水泳部の部員だったため、人工呼吸は一応マスターしてはいたけれど、まさか実践する日がくるとは思いもよらなかった。こんな晴れた日に、こんな都心で。
「この人の鼻、意外と高い。よくみるとかっこいいかも」
命に関わることをやっているのに、そんな不謹慎なことをふと思った。心臓はバクバクしているのに、私の頭はどこか醒めていた。
「ゲフッ」
何度口と口を合わせたあとだろうか、とつぜん彼が胃の中の液体を吐瀉した。顔が横に動いた。
生きてた。よかった。ほんとうに、よかった。
時計が3時半を過ぎたころ、口笛を吹きながら監視員がやってきた。
「あれ、何かあったんですか」
事情を説明しながら私は、ほとんど涙声になっていた。そして監視員を問い詰めた。
人が一切いないのは理由があった。2時間貸切りにしてほしいと彼が頼んでいたらしい。しかも、料金をはずむから席をはずしてほしいと。監視員が恥ずかしそうに言った。
不思議なことに、その後の顛末はあまり覚えていない。病院にいったこととか、彼の両親に説明したこととか、いろいろあったはずなのに。イチョウが色づく頃、事件後――当時の私には十分な事件だった――はじめて彼の姿をキャンパスで見かけた。目線だけが交差する。私は別の男の子と一緒に歩いていた。
キスじゃない、キス。友達以上恋人未満、でもない関係。単なる恋愛未遂。
なんで今まで一度も思い出さなかったのだろう。まるで壁に塗りこんでしまったかのように。人の脳には、自分にとって都合の悪いこと、あるいは思い出したくないことは、すっぽり覆ってしまう機能が時にはたらくという。
あれから20年たった。世間的には、いろいろなことが時効になる(私は法学部だ)。もう外に吐き出してもいいと、私の脳が判断したのかもしれない。師走の貸切りプールは、うまい具合に20年モノのかさぶたをとってくれた。
彼はいま幸せだろうか。幸せだといいけれど・・・
お正月に大学の仲間と集まる。今まで聞けなかった彼の消息を、聞いてみよう。
―――――― この回終わり。ちょっと長かったですね。ごめんなさい。
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