こんなこと書いたらどうなるんだろうと思った。1
いつも自分の考えていることは自分から積極的に話すようにしているので、
話してないことはひとに聞かせるまでもないこと、ということになる。
インナーチャイルドの話は10年くらい前によっちゃんから聞いた。
ぼくの誤解も含めていうと、過去の記憶を辿っていくと、
どこかに泣いている子供の自分が立ちつくしているらしい。
それがいまできているキャラクターと関係あるらしい。
インナーな話にとくに縁のないぼくもつい興がのり、
よっちゃんと話しながら、探すでもなく泣いている子供の自分を思っていると、出てきた。
まだたぶん3才くらいの頃だ。
父方の祖父の住む静岡にはじめて行ったとき、
着いたその夜に、おばあちゃん(母方の祖母)のところへ帰ると騒いだことがあった。
当時から凶暴な性格だったらしく、両親はまる1日もたたぬうちに遠路を往復する羽目になった。
のちに聞かされたのだが、あまりのやんちゃっつぷりに閉口した伯母が、
もうすこし大きくなってから来てね、と言ったくらいだったという。
満足に日本語も理解できなかったくせに、どういうわけか、覚えていた。
伯母さんの声も表情も、覚えていた。
つぎに記憶の隙間から顔をのぞかせてきたものは、
その夜、両親の間であおむけに見た天井、電球のオレンジの暗い灯り。
おそらく夜行の急行の、ガタゴト揺れる車内の、やはりオレンジの暗い室内灯。
それを妙に醒めて見ている子供。
この場合、泣くことと涙を流すこととは、違うことなんだろう。
そうやって発見されたインナーチャイルドは、大人になった自分が抱きしめてやればいいという。
ぼくも言われたとおり、そうした。
もう故人となってしまった伯母を責めているはずがない。
ぼくなら騒ぐ子供には、もっと恐ろしいトラウマになってやるところだ。
いまいくつか想像がつくのは、一人っ子で3才のぼくは他者との距離など測りようもなく、
はしゃぐことで出会えた喜びを伝えるしか術がなかった。
それをもっとも重要な他者のひとりに拒絶されて絶望して、こんどはそれを暴れることで伝えた。
ということなのか。
そんなそいつが、ぼくのインナーチャイルド、だとすると。
つづく(のか?)
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