と
完全に鬱病だった。脅迫状をもらってからというもの、人間不信に陥った。アイツかもしれない…それともアイツかも…。学校でも家でも何事もなかったように振舞いながら、心の中では必死で犯人を探していた。手っ取り早く「僕に脅迫状だしたん、じぶん?(関西では、相手のことを“じぶん”ということがある)」と聞き回れるわけもなく、ただただ、クラスメイトの言動を注意深く観察するしかなかった。そんな日があまりに続くとやはり心身ともにおかしくなってくる。心と体のバランスがこれほどまでにかけ離れた状態はそう長く続くものではない。発狂する一歩手前。何をしても楽しくない。何もする気になれない。食欲もない。起き上がる気力もなく長時間寝ている。起きているときはイライラのしっぱなし。情緒不安定。成績も落ち、部活の卓球部にも身が入らない。弱冠14歳の男子には、過酷すぎる精神的苦痛の日々だった。
もうボロボロ。このままでは本当にダメになる。勇気を振り絞って、卓球部の顧問の先生に相談した。僕が唯一尊敬するT先生だ。卓球未経験者なのに、卓球部の顧問にさせられたにもかかわらず、独自に卓球の指導法を編み出して、さまざまな練習方法の工夫と熱い指導で、数々の選手を全国大会に送り込んできた名伯楽だ。練習が終わった後、体育館の片隅で先生に脅迫状をみせた。涙がこぼれるのを必死でこらえながら、これまでの経緯を話した。先生は黙ってその脅迫状に目を通していた。1枚目、2枚目、そして3枚目。読み進むにつれて、先生の眼光は鋭く、顔も赤みをおびていくのがわかった。まるで自分がその脅迫状をもらったかのように。そしてゆっくりと顔をあげた。湧き上がる怒りを抑えできるだけ感情的になるまいとする先生は、僕を諭すようにこう言った。「なぁ、玉山な、こんなものを送ってくるやつなんか、な、人間のクズや。人間のクズ。ええか、お前が落ち込んどったら、そいつの思うツボやで。そうやろ、ちゃうか。もっと勉強も頑張り、もっと卓球も頑張れ。そんでな、そいつを見返してやるんや」泣くのを我慢していたのに、いつのまにか涙が頬をつたっていた。それでも僕は決して泣いてなんかいないのだとT先生をまっすぐに見ていた。僕はもうとにかく藁をもつかみたい状態だったので、その言葉にすがるしかなかった。それからというもの、何かにとりつかれたように練習に明け暮れた。7時〜8時30分まで早朝練習。12時〜1時までの昼練。そして、授業が終わった後から6時までの放課後練習。それから、火、木、土は体育館の開放日に合わせて、9時まで夜間練習。そこには、地元の高校生や社会人の人が来ていたので、中学生の僕はとてもいい練習ができた。球の威力や試合運びなどがぜんぜん違うのだ。そういう人たちと多く打つことで、普段の中学生との試合で、精神的に上に立つことができる。これが大きい。卓球漬けの毎日を過ごしていた。T先生は、それこそ朝から晩までとことん僕につきあってくれた。
それぐらい練習すると、少しは勝てるようになるはずなのに、なかなか勝てなかった。
結果が出ない。その時期が長かった。勝ちたいという気持ちが強すぎて、焦ったり無理したり。卓球は相手を見ながらするスポーツなのに、どんな相手であっても同じような攻め方をし、一人で勝手に得点し、一人で勝手に失点した。自分一人だけで卓球していたのだ。そしてある週末の練習試合。また負けて先生のアドバイスを聞きにいった時のことである。「玉山、その場でジャンプしてみぃ」「は?ジャンプですか?」「その場でジャンプしてみぃ」僕は何だろうと思い、その場で飛んでみせた。「もっと高くジャンプしてみぃ」僕は言われるがまま、今度は膝を大きく曲げてジャンプした。2度3度繰り返す。すると、先生はこう言った。「玉山よ、高くジャンプしようと思ったら、1回しゃがまなあかんやろ」と言って、ツーとどこかへ立ち去ってしまった。最初、何を当り前のことをこの人は言っているのだと思って、怪訝な顔をしていたが、すぐにその意味が理解できた。肩の力がふぅ〜と抜け、気持ちが楽になっていくのがわかった。なにか救われた気がした。焦らなくてもいいんだ。力はついてきている。今は勝てないかもしれないけど、いつかきっと花咲くことがある。それを信じてがんばれよ。先生はそう言ってくれたに違いないと思った。それから僕は、もっと考えながら卓球に取り組むようになり、「卓球ノート」をつけるようにした。日々の練習メニューやそのなかで気付いたことを書いたり、練習試合の結果を記すだけではなく、相手選手の戦型、使用ラバー、ラケットの種類、サーブレシーブのクセや試合運びの特徴、相手の強いところ、弱点…など役立ちそうなことはすべて記した。そしてなぜ勝ったのか、なぜ負けたのかを分析した。すると今後練習しなくてはいけない課題が見えてくる。今の自分に何が足りないのか。何を補強すべきなのか。また逆に自分の武器は何なのか。どこを伸ばせばいいのか。その技術を効果的に会得するためには、反復して身体に覚えこませるしかない。僕はとくに多球練習(球を多く使ってやる練習方法)を多く取り入れた。卓球はご存知の通り、相手との距離が短くものすごいスピードと回転でラリーになる。だから、プレー中は、考える暇はない。反射神経の勝負なのだ。強くなるためにどうしたらいいか。そのためならどんなことでもやろうと思った。そのハングリー精神。「自分は負けるわけにはいかないんだ!」という気持ちだけは、絶対に誰にも負けない自信があった。それは、差別に負け続けきたそれまでの僕の生活からの反動だ。卓球で相手に勝つことは、僕にとって「復讐」だった。
そして総体。2年の夏。区大会の2回戦負け(区→市→県→近畿→全国という流れ。いちばん小さい地域での大会)だった僕が、なんと1年後の3年最後の総体で、全中(全国中学校卓球大会)に出場したのだ。全国大会の時は、まったくと言っていいほど緊張しなかった。負けてもともと。ここまできたら、自分の卓球をするだけだ。思い切ってプレーできたのが功を奏した。サーブ、カット、スマッシュ。面白いように決まる。あれよあれよという間に勝ち上がり、気がついたら、3位になっていた。そして、ソウルオリンピックの強化選手(1次合宿選考)に選ばれた。進学の際、全国の卓球強豪高校からの誘いはあったが、すべてお断りし、地元の進学校に進んだ。そこは卓球も県下では強豪校であったし、有名な指導者がいなくても、卓球を強くなってみせるということを証明したかった。そして高校では、兵庫県でチャンピオンになるなどして、インターハイに2年連続出場。大学へは、スポーツ推薦で入学した。
もし先生のあの言葉がなかったら、僕はどうなっていたんだろう。もし卓球がなかったら、僕はどうなっていたんだろう。たまにラケットを握ると、さまざまな想いが僕の胸の中を駆け巡る。