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1990年。世はまさにバブル絶頂期。僕らの時代の就職活動は、超売り手市場だった。ゼミの友人たちは、夏に入る前までに、銀行やメーカー、商社を中心に2つも3つも内定をもらっていた。僕はまだひとつも内定をもらえていなかった。就職活動はかなりやっていた。多く回ったほうだと思う。同志社で体育会の副将、単位もきちんと足りている。面接の印象もそんなに悪くない。どこかひっかかりそうなものであるが、全てダメだった。受けても、受けても落ちる。そんな状況に僕は薄々、就職差別があるのかもしれないなと感じていた。僕の場合、国籍の問題だけでなく、自分が生まれ育った地域の問題、いわゆる同和とか部落といわれる問題もあった。実際のところはわからない。でも、二重の差別が、僕の就職を阻んでいるようにしか思えなかった。
ある日、電話で母に弱音を吐いてしまった。「お母ちゃん、全然アカンわ」「そうか…」と言って、しばらく沈黙が続いたあと、母から「帰化しよか」という思ってもみない言葉が返ってきた。あれだけ韓国人であることに誇りを持てと言っていた母が切り出したのだ。「ええの?お母ちゃん」「子供が幸せになるんやったら、国なんか捨てる」母はそう言ってくれた。でも、僕は逡巡した。そのままお願いしてほんまにええんやろうか。ほんまはお母ちゃんは、変えたくないはずなんや。僕のためにお母ちゃんの大切な誇りを捨てさせてしまって、ほんまにええんやろうか。ずっと考えていた。それに僕の思い違いかもしれない。国籍や部落の差別で落ちているとは断定できないじゃないか。僕自身の素養の問題で不採用になっているのかもしれない。「お母ちゃん、そんなんええわ、もうちょっとがんばってみるわ」僕は断り電話を切った。そして、さらに就職活動を続けた。ダメだった。状況は一向に変わらない。ある面接では、国籍と住所のことしか聞かれなかったこともあった。「お父さんの国籍は?」「お母さんの国籍は?」「いつから今の住所に住んでいるの?」露骨だな、と思った。これでは面接という名の取調べだ。どこの企業かは、ここでは伏せておく。相変わらず、受けても受けても不採用の日々が続いていた。
お母ちゃんは、帰化申請の準備を着々と進めていた。母親としては、長男の僕だけじゃなく、これから先就職活動をするであろう二人の弟のためにも、今やっておいたほうがいいと考えたのかもしれない。ある日、電話がかかってきた。お母ちゃんからだ。そこで、帰化申請の準備をじつは進めていること。そしてそれらの申請書類の種類が膨大で、集めるのに相当な時間がかかること。僕の就職にはとても間に合わないそうにないことを話してくれた。「ええよ、お母ちゃん、気にせんといて、がんばるから。」すると「貴康、ごめんな」泣きながらお母ちゃんが謝るのだ。びっくりした。一度も泣いたことがない気丈なあのお母ちゃんが泣いている。電話越しに聞こえる、お母ちゃんのすすり泣く声。それが見えないだけ余計に心に深く沁み込んでいった。どんな顔してどんな思いで泣いて、息子の僕に謝っているのか。謝る必要なんかどこにもないじゃないか。お母ちゃんは、僕が考える以上に相当僕の就職を心配していたんだ。もし就職できなかったら、こういう境遇で産んだ自分のせいだ、そこまで考えたのかもしれない。それがお母ちゃんを泣かせ、息子に謝らせたとしたら…。そんなお母ちゃんの気持ちを思うと、自分のことより逆にお母ちゃんのことを不憫に思えて泣けてきた。そして同時に、根深い差別の存在を改めて恨んだ。「そんなんお母ちゃんが謝ることあらへんやんか。絶対がんばるから、心配せんといて、な、お母ちゃん、だいじょうぶやから、な、切るで」お母ちゃんのすすり泣く声は、僕が切る寸前まで聞こえていた。
そう言って電話を切ったものの、どこもやっぱりダメだった。結局35社受けて35社落ちた。そして、電通の面接。ダメもとだ。強力なコネがあるわけでもない。面接で訴えたことは、僕の人生そのもの。これまで僕がここに書いてきたことを、可能なかぎり伝えるようにした。そして、いま内定をひとつももらえてないことも言った。さらに、どんな仕事でもするから、一生懸命に働くから、電通に入れてほしいとお願いした。お願いして電通に入れるものなら、こんな簡単なことはない。面接はお願いするところではない。重々承知だ。でも、僕はお願いをした。面接官もびっくりしたであろう。ここまであからさまにお願いされたこともなかっただろう。運よく1次と2次を通過。最終面接で作文の試験があった。題は、「鏡」で400字程度だったと思う。僕は、ふと右手に持った鉛筆を左に持ち替え、筆跡を崩し、あの忌まわしい脅迫文を書いた。そして作文の最後、鏡に映るもう一人の別の自分がいる。そのことを今では誇りにし、自分にしかない個性だと信じていると書いて締めた。もう16年も前のことだ。でもその気持ちは、今でも変わっていない。今になって思えば、よく書いたと思う。ものすごい冒険だ。落ちたら、最後なのに。でも、僕があの時感じたことをリアルに伝えるためには、同じような瞬間を面接官に味わってもらうしかないと思った。それは、僕なりの勝負を賭けたプレゼンテーションだった。
1週間後、内定の電話がかかってきた。すぐに家に電話した。「お母ちゃん、電通受かったで!」「うっそぉー!よかったなぁ!」電話の向こうで、お母ちゃんは声を震わせていた。お父ちゃんは、「ごっついなぁ、ごっついなぁ」そればかり言っていた。