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「ちょっと、市ヶ谷のポスター、盗られちゃってるんだけど」夕方6時ごろ営業から電話がかかってきた。「今日はもう作業員は帰ってまして、張り替えは明日になります」「それだと困るんだよね、お得意さんの本社が市ヶ谷だからさ、お膝元でポスターないとやばいでしょ、急いで予備を貼ってくれない?」「わかりました」僕はB倍ポスターを抱え駅に向かう。とくに人気タレントものは、よく盗られた。営業の要請が緊急を要した場合、ポスターを貼りに行くのは新入社員の役目だった。電通に入社し、最初に配属になったのは、東京本社のセールスプロモーション局交通事業部。駅ばりや中づりなど交通広告関係の媒体確保や調整を行なう部署だ。社会人になって初めて上京し、左も右もわからないのに、交通事業部って?と思ったけど。まぁ、配属とはそういうものだ。その中で、僕は3年間駅ばりの担当をした。当時、JRの駅ばり媒体の確保は、くじ引きによる抽選で行なわれていた。毎月の1日が来月分の抽選日。JRに各代理店が集まり、番号の書かれたチップを木箱から取り出して、その番号順に媒体の申し込みができるのだ。交通広告専門の代理店も多数あり、毎月総勢で約70社ぐらいが顔を揃えたと思う。僕が初めてそのJR駅ばり抽選会にデビューしたとき、たまたま『ブロードキャスター』(TBS土曜日夜10時)の取材が来ていた。僕はそれどころではない。すべてが初めてづくしなので緊張のしっぱなしだった。電通の名前が呼ばれる。先輩に行ってこいと言われ席を立つ。木箱の中をガザガサさぐり、チップを取り出した。するとなんと1番!まさにビギナーズラック!「おぉ〜」感嘆ともため息ともとれる低いどよめきが会場を埋めつくした。その様子が全国ネットで流れた。新宿の一番いい媒体スペースをめぐり、電通とオリコミ(現・オリコム)の一騎打ちみたいな番組構成になっていた。僕の顔もドーンと映っていた。名前も大きくでた。何年もこの仕事をやってきた先輩を差し置いて、あまりに目立ちすぎてしまったことをちょっと申し訳なく思っていた。でもこれで、新宿の一番いい場所が取れる。先輩は「いい仕事をした」とケタケタ笑っていた。
その後、僕はセールスプロモーション分野のあらゆる領域の作業に携った。飲料メーカーのプレミアムキャンペーン、東京モーターショーの外国車ブース、コーヒー会社主力商品のPOS分析、缶詰メーカーのインストア・マーチャンダイジングなど、SP領域で一通りのことはほとんどすべてやった。そして今感じることは、この領域の仕事って、本当に大変だということ。CR領域より、予算が少ないにもかかわらず、その業務の手間は、ものすごくかかる。企画、制作管理、スケジュール管理、予算管理、すべて一人でこなさなくちゃいけない。つまり、CRでいえば、クリエーターとディレクターとプロデューサーをぜんぶ一人でやっている感覚なのだ。忙しいってもんじゃない。ものを考える時間がない。いかに仕事を流してゆくか。こなしてゆくか。そのため企画書づくりは外注してしまう人がほとんどだった。
しかし、僕は企画書をつくることだけは外注しなかった。自分の考えを企画書にわかりやすくまとめプレゼンするのが好きだった。自分の企画書は、自分の作品だという意識でやっていた。でもしだいにそれももの足りなくなってきた。たとえ感動させられたとしても会議に参加した人たちの間だけである。せいぜい多くて十数人ぐらいなものである。もっと多くの人に自分の考えたことを伝えたい欲求にかられた。この頃から「広告」というものを具体的に意識するようになった。
電通では、カンヌが始まる前、入賞しそうな有力作品を上映する「プレカンヌ」というセミナーがある。参加するのは、ほとんどクリエーティブ局の人たちだが、面白そうなので業務の合間にのぞいてみた。そこで、あるCMを観て、世界が一変した。それは、フォルクスワーゲン・ポロの30秒CMで、こういうものだ。ポロに乗った人がまさに縦列駐車しようとしている。そのスペースはものすごく空いている。前のクルマは前の方にあり、うしろのクルマはずっとうしろの方にある。トラックが悠々と停められるぐらい空いているのだ。それにもかかわらず、ポロの運転手はこわごわとバックで入れている。今にもポロがクルマに当たるかもしれないという感じで。そこにコピーが入る。『中は思ったよりも広い』みたいなコピーだったと思います。それを観たとき、ガーンときちゃいました。これは面白い!こんな広告なら作りたい!製品の特徴をシンプルにユーモアで伝えている。面白いなぁ。素直にそう感じました。そして、もしかしたら、自分でもつくれるんじゃないかという根拠のない自信も芽生えていました。どうしてかはわかりません。でも、なぜか、自分はできる。と確信的に思ったのです。それから10年分のカンヌのリールを観ました。いやーどれもこれも面白い!どんどんのめり込んでゆきました。そうこうしているうちに電通のセールスプロモーション領域を電通テックへ業務移管するということで、SP局の若手十数名が電通テックに2年間出向になってしまいました。その中に、僕も入っていたのです。ヤバイ!このままだと本当にヤバイ!テックでずっとSPの仕事をすることになるかもしれない。転局試験を受験したのはその頃です。入社して9年が経っていました。
一次試験のペーパーテスト。丸々一日かけて、いろいろな問題が出題される。好きな広告の理由を書かせたり、とにかくアイデアフラッシュを数多く出させる問題があったり、ラジオCMを企画させたり、CMやグラフィックを組み合わせたトータルなキャンペーンを考えさせたり。午後一ぐらいまではいいのだが、夕方頃になると、脳みそが疲れヘロヘロ。それでもなんとか書き切った。50数名が受験し、二次面接に残れるのは数名。狭き門だったが、なんとかパス。次の各CD局長による最終面接では、ペーパーテストをこれでもかと酷評されました。そのとき僕は自分の案をゴリ押しせず、ごめんなさい、すいません、と頭をかいて素直に謝りました。この次はもっと面白いことを考えますとか、なんとか言って。そっちのほうが、ぶっちゃけ「得」なような気がしたから。変に対抗して、可愛げないやつと思われるのも損だ。そのリスクはとりたくない。否定される→謝る、否定される→謝る、そんなことの繰り返しだったのように思う。そして、最後に何か言いたいことは?と聞かれ、はじめて真剣な顔でこう言った。とにかく1度でいいから広告つくるチャンスを僕に与えてください!チャンスを与えて、コイツやっぱり使えんなと思ったら、すぐに出してもらってかまいませんから!と訴えた。『1度でいいから広告をつくるチャンスを与えてほしい。』これが面接のために前もって用意した僕のキャッチコピーだった。局長も新入社員の頃があったはずで、ドキドキしながら広告をつくっていた時期があったはずで。その制作する喜びや広告づくりのみずみずしいシズル感を刺激し、思い出させ、あの頃の自分をいま目の前にいる僕に投影するように話せば、僕をCRに入れたくなるのではと考えたのです。
嗚呼、きっと僕はすごく悪い人だ。