リレーコラムについて

玉山貴康

2000年10月1日。4CDに配属。2日後の10月3日で32歳になろうとしていた。コピーのコの字も書いたことがない遅れてきた新人に、快く仕事を出す人などいるはずもない。数週間後、ある石油元売会社の競合の仕事に入ることになった。コピーライターは僕とY田くんだった。Y田くんは入社3、4年目かの期待の若手。彼は別件で忙しく、コピーをFAXで送るだけでいいのなら、という条件でスタッフィングされていた。売れっ子だ。僕はといえばCDと行動をともにし、コピーを書く。そこに早くもFAXが送られてきた。見せてもらった。「………。」愕然とした。そのコピーが、全部いいのです。当然ですが。僕の書いたものと雲泥の差。書ける人と書いたことがない人の差って、こんなにもあるのかと愕然とした。例えるなら、卓球経験者とそうでない人以上の開き。「………。」その圧倒的な力量の違いに言葉を失う。この時の体験が今の自分をつくっているといっても過言ではないだろう。競合は残念ながら負けてしまったのだが、僕はそれどころではない。これはヤバイぞと。このままだとゼッタイにCRでやっていけない。宣伝会議の教室に通わなくてはいけないような人が、もう電通のコピーライターの名刺を持っている、この恐ろしさ。焦りなんていう生易しいものではない。それからです。毎日、コピー年鑑を写経し出したのは。来る日も来る日も。10年分。2000年から1990年まで。ちょうどいいことに仕事もなかった。有り余る時間で写しに写した。しかし、ただ紙に写していけばいいってもんじゃない。コピーを写すこと自体には意味がない。“なぜこのコピーは良いのか”を考えること。“どのように考えれば、そのコピーは生まれるのか”を考えること。それが非常に大切なのだ。それを考えられさえすれば、別に書かなくてもいいのだが、実際に紙に書いてみると、またそれはそれで違う感覚を味わうことができる。最大のメリットは、イメージトレーニングができること。紙にコピーを書く。この商品で、このコピーを書けば、僕はスターだ!などとニヤッとほくそ笑んでみるのだ。これがいい。ホラ、僕も書けるじゃないかと。いや、そりゃ誰だって書くだけなら、ね。でも、自信をつけるという意味で一回そういう夢を見るってことは大事なのだ。そして、キャッチを手で隠したり、逆に商品や企業名を手で隠したりして、言葉の「立ち位置」と商品や企業との「距離感」を具体的に測ってみるのだ。この「手で隠す」ってところが僕なりの工夫。本当に視界から無くし、改めてコピーを書いたり、言ったりすることで、ものすごく鮮明にコピーライターの思いや眼差しを感じることができるんです。もちろんリードコピーやボディコピーもちゃんと書いて、どういう関係性で成り立っているのかもみる。こうして実際に手を動かしながら、1つ1つの広告を吟味し、その広告の裏側にある企画意図を探索・研究していった。僕は圧倒的に広告を見ていないし、広告づくりも経験していない。ならば、年鑑を通じて、頭の中の疑似体験でもいいから、広告づくりを数多く経験し補ってゆくしかないじゃないかと思った。『コピーをうまくなるためには、コピーの勉強をするしかない。』当たり前のことだけど、僕はこの真理をまっすぐに信じて進んでいこうと思った。映画を観たり、本を読んだりすることも大切かもしれないが、当時の僕の状況では、どうも遠回りのような気がしてならなかった。僕は天才じゃない。だから勉強しかないのだ。先輩の中には、デスクでコピー年鑑を見ていると、「お勉強?」とか言って揶揄したりする人もいた。でも僕は誰が何と言おうとそこから逃げてはいけないと思った。僕には時間がない。凡才が最速でコピーが書ける人にならなくてはいけないのだ。師匠は、コピー年鑑。写経は、まったく苦にならなかった。むしろ逆に、コピーの面白さや自由さに心を奪われた。書けば書くほど、その面白さにのめりこんでいく。なんて自由で、なんて楽しい世界なんだ!いいコピーは、人間の心をとらえていた。ある業界誌に載っていた仲畑貴志さんの言葉を見つけ、それをさらに確信した。仲畑さんはこう言っていた。『コピーライターは、コトバのプロフェッショナルではなく、ココロのプロフェッショナルです』と。

それまで電通の転局組は、だいたいCMプランナーの職種になることが多かった。局内を歩いていても、「玉山ってプランナーでしょ?」と言われることが多かった。転局からのコピーライターは、その職人性からか年齢的にちょっと遅いんじゃないか、無理なんじゃないか的な空気がなんとなくあった。しかしその当時、電通ではCMプランナーが数多くいて、コピーライターの数が少ないことが危惧された時期でもあり、僕はあえてコピーライターとしてやっていきたいと会社には伝えていた。あえてイバラの道を選んだ。というよりも、あまりにもコピーが書けなかったので、プランナーになったとしてもコトバの基礎がないとやはりやっていけない気がしたからだ。

転局して半年ぐらいは、ほとんど仕事らしい仕事がなかった。自分より社歴が上なのにCR歴では下という僕に対して、一応、敬語だけれども、後輩たちもなんとなくしゃべりにくそうにしていた。そんなある日、社内で人権スローガンの募集があった。社員の意識を高めるために、10年以上も続いている社恒例の人権啓発活動だ。電通全グループ全社員から人権スローガンを募集し、優秀な作品は、入賞として発表されると同時に5万円の図書券がもらえる。毎年6,000本近くの応募がある。1)部落差別について、2)在日韓国人差別について、3)女性差別について、4)子供の人権について、5)障害者の人権について…など10のカテゴリーに分かれている。自分にうってつけじゃないか!これは無視できないなという直感がDNAレベルにまで働いた。書きに書きまくる日々。日頃、年鑑で培った技を試す絶好のチャンス。いいのも悪いのもとにかく全部だしてみた。そして、2本のスローガンが入選した。発表があり、それが4CDのいろんな人たちからほめられた。「玉山って、あんなコピー書くんだね」「いいね、あれ」。それからだ。少しずつ仕事がコピーライターとしてもらえるようになった。あの時をきっかけに、微かだけど確かな手ごたえを掴んだのを覚えている。どんなのを書いたかって?ご紹介します。2つとも「子供の人権」カテゴリーで、児童虐待をテーマにしたものです。一つ目は、【「道でころんだ」と親をかばう子供がいます。】もう一つは、【忘れられない思い出が、どうか、いいことでありますように。】です。

2年前。TCC授賞式に、お世話になったスタッフのほかにお母ちゃんを神戸から呼んだ。お母ちゃんは、この日のために買った紫色のワンピースを着ていた。スカートのシワが目立つかどうかをことさら気にして落ち着かない様子だった。授賞式。コピーが読み上げられる。壇上にあがる僕をどんな思いで見ていたのだろう。久しぶりにいっしょに写真を撮った。美味しそうなウェスティンホテルの豪華な料理にも舌鼓。スタンディングで食べることを、やたら「おしゃれや」と言うのがちょっと可笑しい。もうスカートのシワなんてどこへやら。あんなに嬉しそうにはしゃぐお母ちゃんを見るのは初めてだった。神戸大震災の翌年、癌でお父ちゃんが死んでから、本当に元気がなくなっていたから、僕は余計にうれしかった。

ホテルからの帰り際、ロビーで、ふと鏡の横を通り過ぎた。柱に大きな鏡が据え付けてあった。あれ?今のは?もう一度鏡の前に戻ってみると、そこに、僕…ではなく…中学時代の僕が、いた。手には3枚の便箋を握りしめて…。

忘れられない思い出が、どうか、いいことでありますように。

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読んでくださった方。5日間にわたり、お付き合いいただきまして本当にありがとうございました。長文・駄文をお許しください。

そしてここに綴った文章を、神戸にいるお母ちゃんと天国にいるお父ちゃんに感謝を込めて捧げたいと思います。

ありがとう。

お母ちゃんとお父ちゃんの子どもでよかった。

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次は、電通関西支社の矢野貴寿くんです。
彼とはたまにいい仕事があったりすると、
互いにメールでコピーを見せ合う仲なんです。
素晴らしい…◎、良い…○、普通…△のような感じで。
今は営業の部署に異動していますが、
きっといつか制作の現場に戻ってこられることを信じて、
矢野くんにお願いしました。では、矢野くん、よろしくです。

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