1984 上
職を探していた頃は、いつも電話を待っていた。
ケータイがない時代のことである。
特に会社から会社にこっそり転職を企んでいたときの
勤務時間中、小心者は気が狂いそうになる。
大卒後最初に勤務したメーカーを5ヶ月で退社。
友人のアパートに転がり込んで失業中の1年は楽しかった・・
・・なんてことを書いているスペースはない。
理科系の大学を出たのだが、
作りたかったのは機械ではないことに早々に(遅せーよ!)気づいた。
もう2度と就職に失敗したくなかったから
初めて(真剣に)何を作りたいのかを、自分と相談したところ
「広告を作りたかった」ことを確認・決心したのだった。※1
最初に拾ってもらった広告会社は、
展示会を収益の中心に据えた制作プロダクションで
広告制作は2番目だった。コピーライターもデザイナーもいた。
僕はコピーライターという職業も糸井重里さんも知らなかった。※2
・・・・
(ここから3年後にワープする)
・・・・
初めてこの会社で広告産業と対峙して、
コピーライターをめざそう。(遅せーよ!その2)
と決めたがこのプロダクションは許してくれなかった。
転職を決める。目標も決めたTCC新人賞を獲る。
それも3S(スリーエス)と言われた名門の広告で。
すなわちサントリー/資生堂/ソニーだ。※3
この3社の広告をすべて携わっている会社は一社だけあった。
サン・アドだ。
ある日曜の朝日新聞。感電した。
サン・アドのコピーライター募集の広告が出たのだ。※4
しかし、サン・アドから電話はかかってこなかった。
作文で落ちました。はは。
そしてこの時、サン・アドに入社したのが中村禎である。※5
しかし 僕はPLAN Bを用意していた。
PLAN Bは、東急エージェンシー・インターナショナルという会社だった。
今度はこの会社からの電話を待った。
※1:17歳くらいの夏休みの午後、母と見ていた番組の中で流れたCMに感電したことを覚えている。番組は資生堂提供のトーク番組「おしゃれ」。そのCMは秋の口紅でコピーは「海岸通りのぶどう色」。(後にコピー年鑑で小野田隆雄さん作と知る)
※2:かっこいい広告をスクラップするほど広告好きだったくせに、職業としての広告屋に目を背けてきたのは若い頃兄の友人が広告屋(コピーライターだった!)で何度も職を変えたこと聞き母にロクでもない商売だと教えられ「勉強できないと何度も仕事変わることになるんだよ」と育てられたからだ。何度も仕事変わる人生になってしまった。
※3:素晴らしい広告を作っていた秘密は、3社とも優秀な社内制作部を持っていたこと。
外部スタッフを使う時は常に一流プルダクションを。つまり広告の品質を知っていた。宣伝部の力が強かった時代。
※4:この頃、広告業界のいい求人は必ず日曜の朝日新聞に掲載されていた。みんな目を皿のようにして探していた。
※5:今ではサン・アドと定期的に一緒に仕事しているが新人がチームに加わるたびに「若い頃サン・アドに落とされ、恨みがある」といつも凄んでいる。