20歳の選択
親族会議が開かれた。お題は、ぼくが会社を辞めたこと。
「辛抱がたりん。世の中なめてんのか。親の育て方が悪い。
キィー!キィー!キィー!!!!!!!!!!!!!」
うんざりだった。誰もが辞めた理由なんて、
はじめからあるわけないでしょって感じで、聞いてもらえなかった。
「すぐ、見つけるから」
それだけを言い残して、席をたった。
どうせ、みんなにぼくの気持ちなんてわからない。
「ニヒルでしょ、ぼく」の状態を装っていたが、
心の中では、
「まずいぞー、やばい。この先、どうしよう、ぼくちん」
の状態だった。
あれほど就職情報誌を真剣に見たのは、最初で最後だろう。
エロ本より集中して見た。
「あせあせ、あせあせ。ふぅ〜、あせあせ、あせあせ。ふぅ〜」
焦りとため息だけが存在した。
ある日、
「版下、写植オペレーター募集。デザインしたい人、来て来て♥」
という求人広告を見つけた。
「デザインか〜。また騙されるかな〜。ま、試しに受けてみるべ。ん〜」
見事、合格した。
その会社は名古屋にあった。
名古屋に引っ越したり、先輩社員と同居したり、
いろいろ大変だったけど、いい会社だった。
来る日も来る日も、
ガチャコーン、ガチャコーンと写植機を動かしていたが、
みんな優しくいい人ばかりだった。
写植というのは、印刷する前の文字要素。
今ではパソコンですべてやってるが、
当時はライターの書いた原稿を写植機で打って、
それを版下にして、印刷屋に入稿していた。
平穏無事な日々が続き、2年くらいたったある日。
ふと、その会社にある本棚を見ていると、
仲畑さんの本があった。
「なんだ、これ? 仲畑貴志って誰? コピーライターってなに?」
なになに状態である。
ただ、この時のぼくは、なんにでも興味があった。
「へー、へー、うむうむ。コピーライターって、すげーな。
これもこの人が書いてんのか?
糸井重里? タレントじゃなかったんだ」
ミーハーな、ドドドドド素人である。
ただ、その本を読むたびに、コピーライターっていいかも。
と、思うようになっていった。
もともと文章を読んだり書いたりするのが好きなのもあったと思う。
それからは早い。若さゆえの暴走というか、
「おらおらおら〜」
と毎日、本屋にかけこみ、
コピーライター関係の本を読みあさった。
コピーライターへ、華麗なる変身。
それだけを考えていた。
さまざまな本を読みあさるうちに、ひとつの学校があることを知った。
宣伝会議。
東京に住んでいた人は、
「そんなことも知らずに、コピーライターになりたい?
無理だぜ、セニョリーター〜(男だけど)」
と思うかもしれないが、
当時の田舎では、そんな情報も死に物狂いで調べなければ、わからなかった。
ただ、当時名古屋に宣伝会議はなく、通信講座で勉強した。
本当になりたかったんだろう。
今まで、漫画講座や、ペン講座といった通信講座をいくつかやったが、
どれも続かなかった。唯一続いたのが、コピーライターの講座だった。
修了が近づく。
「はて? で、コピーライターになるには、どうすればいいの」
肝心なことを忘れていた。
また求人広告とにらめっこした。
未経験者募集。
講座で書いたコピー原稿の束をかかえ、
名古屋中の広告会社を受けまくった。
全滅。
「ぼくの華麗なる計画は、どこいったんでしょうか。お母さん」
状態である。
今ならわかるが、当時名古屋には未経験の人をとる
余裕がある会社がなかったのである(大きな代理店は別だが)。
「みんな、ぼくにコピーライターさせたくないんだ。才能をねたんでんだ。
スターになったら困るからでしょ。ホントいじわる。うじうじ」
と、いじけてはみたものの。
やっぱりあきらめることは出来ず、
昔、東京に行きたかったことを思い出し、
「そうだ、東京だ。とにかく東京にいけばなんとかなる」
と、バカまるだしの行為に出た。
ただ、今回はなんとかなった。あるプロダクションから来てね♥
という、返事をもらったのである。
華麗なる変身計画、大成功!!
である。
そして、早、20年。
さまざまな会社を選択し移り変わり、フリーという道を選択した。
ただ、コピーライターという職業だけは、変わりなく続けている。
たぶん、これからも。
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読んでくれた方、1週間、ありがとうございました。
いろんな人から、うれしい感想をもらい、小心者のぼくとしては、
大変ありがたかったです。同時に、コラム(エッセイ?)書くのって
おもしろいな、と新たな発見もありました。
来週は、I&S BBDO の岩田秀紀くんです。
岩田くんは、今年名古屋から東京にはるばるやってきた頑張り屋さんです。
みんな楽しみにしてください。