電通に入っておけばよかったなぁ〜
若気の至りで西尾さんのもとを飛び出して、
業界初めてのフリーランス・コピーライターになりました。
モテました。電話がジャンジャンでした。
日本デザインセンター時代の兄貴分、赤井恒和さんが電通にいて、
私に生命保険協会のシリーズ広告などのいい仕事をくれました。
5年間60本の作品になりました。
局長の近藤朔さんも小林泰介さんもよく仕事をくれました。
1年半ほどしたとき、小林さんから「もう入社しろよ」と言われました。
私にはそのつもりがなかったので、びっくり。
丁重にお断わりしました。
富士ゼロックスの仕事は全部やらせてもらっていて、
つぎはビューティフル・キャンペーンだというところで、
ある日、コピーライターが代わりました。
ま、監督の意に沿わなかったのですから仕方ありません。
赤井さんには兄事しつつ、公私、親友づきあいをしてもらいました。
元旦に、両夫婦で近藤さん宅へ年始の挨拶にいくのが決まりでした。
うちの娘が三つ、四つの頃でした。
近藤さん夫妻は美男美女でしたから、お嬢さんがまたすこぶるつきの美人。
外国語ぺらぺら、ピアノもうまい。そして料理も。
ある年、おせち料理のほかにうちの娘のために、
可愛いミニ餃子を作って待っていてくれました。
近藤さんが長年書いていたキッコーマン醤油のコピーは
赤井さんが跡を継いでいました。
翌年の正月広告、赤井さんはキッコーマン醤油の15段で
「年始客には意外と子供連れが多い。
それも、小さなお客さま。」と書きました。
1975年の年鑑に載っています。
近藤さんのお嬢さんは後にロスチャイルド家の研究家となり、
ベストセラーを出しました。伊藤緋紗子さんです。
赤井さんは飲ん兵衛でしたが、スタイリストでした。
お洒落で、銀座の決まった高級テーラーでスーツを作っていました。
銀座の飲み屋をはしごして、タクシーを拾って相乗りで帰ろうと、
交差点で並んで、信号の変わるのを待っていると、
となりで、ピシャピシャ音がする。
見ると、しゃんと立ったまま、顔を前に向けたまま、
赤井さんは吐いているのでした。それを、
カウンターで人の話を聞きながら姿勢を崩さずにやることもありました。
こんな赤井恒和流を崩さずに、
多くの名作コピーを書き残して、さっさと逝ってしまいました。
赤井さんがいなくなってからも、
電通さんには沢山仕事をもらい、沢山の友だちもできました。
ですから、私なんかには勤め上げられなかったかもしれませんが、
同世代の人たちが幸せそうにリタイアしていくのを見て、
シマッタァ、あんとき入っておけばよかったなぁ、と
思ったことが二度や三度ではありません。
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